ろ三の形を採るのが適当であらう。しかしながら、三の考と雖も形式文としては成立つけれども、実際にはわざ/\そんな馬鹿な想像を廻らす必要はない。定家卿も、恐らくそんな非常識なことを歌つたのではあるまい。一の如きも、成程一応の理窟は通つて居るが、君と明かに主格を指定した理由を知るに苦しむ。自分の心が君を待つことは、即、いひかへれば君が自分をして待たしめるのである。
同様のあらはし方は、随処にこれを見ることが出来る。けれども、このいひ方が、大体非常に余裕のあるいひ方なので、純然たる自己の心の批評である。果してかういふやり方が、この歌の全体の色調に調和して居るか、かういふ場合に、何故に率直に自分の心を疑ふといふ立場を取らないのであらうか。強ひて不調和を犯してまでも、かゝる表現法を取る必要はあるまい。非常識ないひ方であるといはなければならぬ。これ亦作者の意ではなからう。
この歌は、雲の色を誰が夕ぐれと君頼むらむといふ、形体的内容を有して居る。けれども、綜合したる内容の上には、さしたる影響もないが、韻文としては、非常の用意が窺はれる。試に、「雲の色に」として見ると、下の句との区劃が非常に明瞭になる。それで、思想を伝へるには、或は便利であるかも知れんが、このところは、明瞭に、思想上の区別はつけておいて、形式の上では、「頼むらむ」に続くやうにする必要があるのである(勿論こゝのを[#「を」に白丸傍点]は、意味は極めて軽いが、古く行はれたよ[#「よ」に傍点]に代はる用法のを[#「を」に白丸傍点]があるから、多少その軽いところを含めたものと見てもよいが、形体的内容に於て、賓格の扱を、雲の色に与へて居るといふことは否むべからざる事実である)。
雲の色をといふ語は、実際不即不離の状態にあるもので、形式はともかく、上二句にも下二句にも、思想上明かに連続はして居ない。しかも、この語なくしては、この歌の価値を減ずること大なるものである。なにも、必ずしも、明瞭に接続する文章が理想的のものとはいはれない。たゆたふ心の有様をあらはすためには、かういふ思想上に聯絡なき語が形式によつて纔かに繋れて居る緩慢な句を据ゑることも、一方である。定家卿の幽玄体と称する歌には、まゝ象徴詩的のものがあることは、業に述べたが、この雲の色を[#「を」に傍点]の語の如きは、部分的に夕雲を借つて来て、心的状態をあらはし、又形式の上にも、聴覚情調を重んじて居るところは、すでに象徴風を帯びた歌というてよからう。
此歌は要するに、家隆卿の「たが夕ぐれとたのむ秋風」の歌と互に裏書をしあうて居るものと見てよい。
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読者のある部分の人に断つておく。自分の目的とするところは、出来るだけ内容を完全にあらはしたいと思ふので、一字一句も忽諸にせないつもりであるから、時としては音脚を分解し、音質を検する如きこともあつて、自然一首の歌の数十倍の言語を費すこともあるであらうが、真に歌を知らうとする人を目的とするのであるから、そのつもりで居てほしい。実用的に訓詁のみにて足れりとする人は何も読んで貰ふ必要はないのである。要するに真の読者を待つに外ならぬ。
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底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「わか竹 第三巻第四号」
1910(明治43)年4月
※底本の題名の下に書かれている「明治四十三年四月「わか竹」第三巻第四号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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