的格の「を」として、下の男を志につゞけて「をし」即「愛し」と訓む風は、意味をなさぬことになる。即語根としては意義はあるが、成語としては意義をなさない。「をし」は恐らく屈折を生じて「をし(惜)」といふ形容詞になつて、完全な意義を生じたと思はれる。だから、古代の「をし」の用語例は、必しも「惜」でなく、大切・大事など言ふ、
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○あたらしき君が老ゆらく惜毛《ヲシモ》(万葉巻十三)
○劔大刀 名の惜毛われはなし(同巻十二)
○君が名はあれど、吾が名之惜毛(同巻二)
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などの「をし」その他は、唯の「をし」で解せられるが、よく考へれば、大事と言ふことである。つまり、用言としては、さうした語原的の意義を一部分表して、後の用語例どほりでないものも出来たのだ。「をし」に珍重する意義を失はなかつたのだ。唯、語根の様な形で、他の体言や、用言と熟語を作つた時、特殊な内容を醸し出したものと思はれる。かうした「おし」「をし」が、更に分解して、「お」「を」になることは知れる。即我々の既成概念を以てすれば、大・小である。「お」「を」から直接に熟語を作つてゐる「おきな」「をぐな」「おみな」「をみな」「億計《オケ》王」「弘計《ヲケ》王」「大碓《オウス》」「小碓《ヲウス》」「おぢ」「をぢ」「おば」「をば」「大忌《オミ》」「小忌《ヲミ》」などがある。
私は尚、後々から例証を挙げて行くつもりだが、もう分解出来ぬ様に見える「おし」「をし」にも、やはり接合点があり、而も此等が作つた熟語の多くが失はれて了うたことを考へるのである。唯、「おし」の方は、あゝした形の熟語と認められてよいものとして残つたが、「をし」の方は、熟語用言として形を留めたと見ることが出来るのだ。唯此が今すこし形容詞屈折の含まれた時代だと、「をゆ」とか「をく」「をつ」「をす」とか言ふ形になるのだが、其だけの内容を「をし」が作つてゐない。「お[#「お」に傍点]ゆ(老)」と言ふ語(新国学第二・第一号)に対して、「わかゆ」と言ふ語の出来たのが遥か後の事と思はれるのである。
だから、「をしむ」或は形容詞「をし」などの場合は、「をし」の内容がある点まで拡張してゐるものと見ねばならない。さうして思ふべきは、後来の形容詞に専ら行はれる、殊に久活形容詞専門と思はれる「し」を外して語尾につく形は、こゝで考へる必要がある。
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