うよ/\として出て来たのである。
此時、何の理由もなしに、泉鏡花さんと、稲生武大夫《イナフブダイフ》とが一処になつて、どつと私の前におし寄せる波のやうなものに乗つて出て来たものである。
今思ふと、武大夫が泉さんと因縁を持つてゐることは説明するまでもないことである。が、私には訣があつた。――其よりも、その際は、真に雲を掴むやうに鏡花小史と稲亭主人を一緒にして呑みこんだことだつた。此二人を、怪談作家と武辺者といふ感じでうけ入れたのではなかつた。ひとしく彼侏儒であり、小悪魔として接したものゝやうである。
話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。泉さん御自身が、常半ば戯作者を以て任じておいでだつたことも、こんな「入れ事咄」には、意味を持つて来るのである。
――泉さんを二番町のお宅にお訪ねしたのは、お亡くなりになるやつと二月前位だつたらう。大学の夏期講習に引き出しに行つたのだが、――大して物事の判断に「おつかなびつくり」を用ゐぬらしい、大戯作者は、実に潔く、「出ますとも」と承引して下された。此事に関しては、その直後、私の師柳田先生から、とてもひどくお叱りを受けたものであるが、――私並びに私に唆かされた泉さんの軽はずみを、御自身の身にひきつけて悔いるやうなお気持ちで、お咎めになつたことは、其時其場に感じ乍ら、先生の教誨の前に頭をさげて居た私であつた。
併し其時の泉さんと私とは、実に気持ちよく話しあうたものである。十数年以来、何処へでも同伴して行く習慣になつて居る家の春洋なども、単に金沢に少年時を育つたといふだけで、其はほのぼのとした愛情を持つた表情で、始中終顧み/\話してやつて頂いた。
泉さんの持論の黄昏時の感覚と、其から妖怪の怨恨によらぬ出現の正しさ――かう言ふ表し方は、泉花さんの厭ふ所でありさうだ。――を主張する情熱と言ふよりは、別の熱を持つた話になつて来た。自分の職に絡んだことに話が向いて来ると、竪板に水と謂つた風に、流動して来た表現力、寧却て信頼をはぐらかしさうなまでの雄弁で、――今も手にとつて見る様に思ひ浮ぶ話しぶりで話された。
実は其時、甚申し訣ないことだが、稲生武大夫と謂へば、篤胤が書いた「稲生物怪録」を触れて通つた位にしか読んで居なんだ私である。
それ、あのよく貸し本屋が持つて来たぢやありませんか。――写本でさ――、稲亭随筆だの、稲亭何だとか言ふし、御存じないんですか、――あきれた、と言ふ風で、私の無知を確めて、何だか却て恥かしさうな顔をしながら、さうかなあと言ふ風な表情を見せられた。
物足らぬ話相手だと思はれたことだらうし、土台自分は無学な戯作者を以て任じて居られた人だから、一目おいて来た学者といふものが、自分の知つて/\知りぬいてゐるありふれた雑書を知らぬとなると、今までの謙遜な自覚が動揺せずには居られなんだらう。でも、人に恥をかゝせぬお人の事だから、あきれた表情を持ち続けることなく、新しい感興を以て話の方にみを入れて[#「みを入れて」に傍点]行かれた。
泉さんは、柳田先生などゝ同年代の若い時代を過ぎて来られたのだから、先生同様、私より一まはり以上は上《ウヘ》の筈である。さすれば、あの日清戦争時期は、貸し本などを耽読せられた時代で、さう言へばその頃なら、まだ私装本を頭より高く、恰も見越し入道を背負うたやうな恰好で、雑書読みの居る家《ウチ》を何日目かに訪《ト》ひ寄つた時代であつたことだ。



底本:「折口信夫全集 32」中央公論社
   1998(平成10)年1月20日初版発行
※題名の下に「昭和十七年頃草稿」の記載があります。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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