常の形でなく、魂魄とからだとが融合するまでに回復するのに手間どつてゐる点、おなじ説経正本の「愛護若《アイゴノワカ》」でも、愛護若の亡き母が娑婆へ来るのに、骸が残つて居ないので、鼬のむくろを仮りて来る段がある。此他人の骸を仮る点の脱落したらしいのが、小栗の蘇生を複雑に考へさせる。私は小栗説経の古い形は、此であつたのであらうとは思ふが、姑らく正本に従うて説明して行かう。
四五年前にも一度、小栗判官伝説の解説を書かうとして、柳田先生に餓鬼つき[#「餓鬼つき」に傍線]の材料を頂いた事があつて、企ては其まゝになつて居た。前号に先生のお書きになつた「ひだる神の話」を見て、今一度稿を起して見る気になつた。
私自身も実は、たに[#「たに」に傍線](た清音)に憑かれたのではないかと思ふ経験がある。大台个原の東南、宮川の上流加茂助谷での事である。米の字を手の平へ書けば、何でもなかつたのにと、後で木樵りから教へられた。
「ひだる神の話」に先生は、名義に就て二つの暗示を含めて置かれた様に思ふ。一つはだる[#「だる」に傍線]がひだる[#「ひだる」に傍線]から出てゐると言ふ考へ、今一つは、だに[#「だに」に傍線]を本義として、虫のだに[#「だに」に傍線]と一つものとする考へ方とである。此後とも此種の報告が集つて来て、先生の結論を、どう言ふ方面にお誘ひ申すかわからないが、私も此物語に絡んでゐる点だけの小口をほぐさせて頂く。あの室生山の入り口、赤埴仏隆寺のひだる神[#「ひだる神」に傍線]の事は知らないで居たが、あれを読んで、自分一人思ひ合せる事がある。中学生で居た頃、十八の春の夕、とつぷり暮れてから一人、あの山路を上つて室生へ下りた事がある。腹がすいて居たけれども、あるけなかつた程ではない。室生の村の灯を見かける様になつてから、棚田の脇にかけた水車の落し水を呑んだ。其水の光りはいまだに目に残つてゐる。あの報告を読んでぞつとした。其感銘を辿りながら書いて行く。
私は餓鬼についての想像を、前提せなければならぬ。餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。
餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。而も幽霊の腰から下は、一本足を原形とした事を示して居るのではなからうかと思はれる。さうすればやはり、山林を本拠とする精霊なるが故に、おなじ山の妖怪なる一本だゝら[#「一本だゝら」に傍線]或は、片方だけにきまつて草鞋を供へて居る山の神などゝ共通する処があるのではあるまいか。
餓鬼と言ふと、先入主に囚はれ勝ちになるから、だる[#「だる」に傍線]の名に沿うて話を進めて行く。私は山野に居る精霊類似のものに、山に入つて還らなくなつた人々の、死霊の畏れが含まれて居るのを認める。だる[#「だる」に傍線]が憑くと立てなくなるのは、友引きであり、たとひ一粒の食物乃至は米の名を聞かせるだけでも、怨念退散するのは、一種のぬさ[#「ぬさ」に傍線]に当つて居るからである。

     二 ぬさ[#「ぬさ」に傍線]と米と

聖徳太子が、傍丘に飢人を見て、着物を脱ぎかけて通られたといふ話は、奈良朝以前既に、実際の民俗と、その伝説化した説話とが並び行はれてゐた事を見せてゐる。而も其信仰は、今尚山村には持ち続けられてゐる。此太子伝の一部は明らかに、後世の袖もぎ神[#「袖もぎ神」に傍線]の信仰と一筋のものであると言ふことは知れる。行路死人の屍は、衢・橋つめ、或は家の竈近く埋めた時代もあつた、と思うてよい根拠がある。山野に死んだ屍は、その儘うち棄てゝ置くのであらうが、万葉びとの時代にも、此等の屍に行き触れると、祓へをして通つた痕が、幾多の長歌の上に残つて居る。歌を謡うて慰めた事だけは訣るが、其外の形は知れない。唯太子と同じ方法で着物を蔽うて通り、形式化しては、袖を与へるだけに止めて置いた事もあらうと思ふ。
みてぐら[#「みてぐら」に傍線]とぬさ[#「ぬさ」に傍線]との違ひは此点にある。絵巻物の時代になると、みてぐら[#「みてぐら」に傍線]・ぬさ[#「ぬさ」に傍線]を混同して、道
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