撒く事に聯想が傾くが、恐らく葬送して罷《マカ》らせる意であつたものが(任《マ》くの一分化)骨を散葬した事実と結びついて、撒くの義をも含む事になつたのであらう。
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秋津野を人のかくれば、朝蒔君《アサマキシキミ》が思ほえて、歎きはやまず(万葉巻七)
たまづさの妹は珠かも。あしびきの清き山辺に 蒔散染《マケバチリヌル》(?)
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などは、風葬とも限られない。
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鏡なすわが見し君を。あばの野の花橘の珠に、拾ひつ(万葉巻七)
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なども、火葬の骨あげとはきまらない。「ひろふ」と言ふ語に、解体して更に其骨を集める事を含んで居るのかと思ふ。勿論火葬は、既に一部では行はれて居たであらう。が、私はわが国の殯《モガリ》の風を洗骨に由来するものと考へて居る。今も佐賀県鹿島町の辺に、洗骨を行ふ村がある位である。南島と筋を引く古代人の間に、此風がなかつたものとも思はれない。併し、洗骨の事実を「珠に拾ひつ」と言うたと考へられないであらう。洗骨はやはり、復活を防ぐ手段なのであつた。何にしても日本の蚩尤伝説は、其が固定して後までも、実際民俗は解体散葬の方法を伝へて居たものと考へるのが、ほんとうであらう。
家来は火葬で蘇生の途を失ひ、小栗は土葬の為に、復活して来た。が、此物語の中には、肝腎の部分なる屍の不揃であつた、と言ふ点を落して居るらしい。斂葬に当つて、必体のある一部を抜きとつて置いたのが、散葬によらぬ場合の秘法であつて、其が Life−index の伝説形式を形づくる一部の原因になつたものらしい。小栗の、耳も聞かず、口も働かず、現し心もない間の「餓鬼阿弥」の生活は、此側から見ねば訣らないと思ふ。
鬼に、姿見えぬ人にせられた男が、不動火界呪によつて、再、形を顕したと言ふ六角堂霊験を伝へた今昔物語の話は、我が国には珍らしい型であるが、飜訳種とばかりはきまらない。よしさうであつたにしても、小栗の場合の今一つ残つた部分の説明には、役に立ち相である。
蘇生の条件の不備であつた屍の説明から、もう一歩踏み込んで見なければならぬのは、元来屍を持たない精霊の、肉身を獲る場合である。
私は長々と、だる[#「だる」に傍線]が行路死人の魂魄から精霊化して、遂にはひだる神[#「ひだる神」に傍線]とまで称せられる様になつた道筋を暗示し
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