どもの幼時は、まだこんな遊戯唄が残つてゐた。
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頭の皿は、いつさら、むさら。
なゝさら、やさら。こゝのさら、とさら。
とさらの上へ灸《ヤイト》を据ゑて、
熱や 悲しや 金仏《カナボトケ》けい。けいや。
……………………
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何の意味をも失うてはゐるが、皿を数へるらしい文句である。皿数への文句としては、「嬉遊笑覧」に引いた、土佐の「ぜゞがこう」の文句が、暗示に富んでゐる。
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向河原《ムカヒカハラ》で、土器《カハラケ》焼《ヤケ》ば(ヤキハ?)
いつさら、むさら、なゝさら、やさら。
やさら目に遅れて、づでんどつさり。
其こそ 鬼よ。
簑着て 笠着て来るものが鬼よ。
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此唄を謡ひながら、順番に手の甲を打つ。唄の最後に、手の甲を打たれた者が、鬼になる。かういふ風に書いて、此が世間の皿数への化け物の諺の出処だらう、とおもしろい着眼を示してゐる。
皿数への唄に似たものは、古くは、今昔物語にもある。女房が夫を捨てゝ、白鳥となつて去る時、書き残した歌、
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あさもよひ 紀の川ゆすり行く水の いつさや むさや。いるさや むさや
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下の句は、何とも訣らぬだけに、童謡か、民謡らしく思はれる。だが「いつさや むさや」は、「いつさら むさら」と関係がありさうに思ふ。皿数へ唄が、五皿六皿から始まるらしいのを考へ合せると、殊にさう思はれる。時代の新古によつて、類似民俗の前後をきめるのは、とりわけ民謡の場合、危険である。だがこの唄では、今昔に俤を残したものゝ方が古くて、皿数への方が、其系統から変化したもの、と思うてよい様である。皿数への唄一個が因で、果して皿数への妖怪を考へ出したであらうか。少々もの足らぬ感じがする。尊敬する喜多村氏の為に、其仮説を育てゝ見たい。
「いつさや むさや」時代には、大体皿の聯想のなかつたもの、と見てよからう。さうすれば、皿数への妖怪にも、交渉のあるはずがない。さや[#「さや」に傍線]がさら[#「さら」に傍線]となり、いつ[#「いつ」に傍線]が五《イツ》、む[#「む」に傍線]が六《ム》の義だ、と解せられると、「なゝさら やさら」と、形の展開して行くのは、直《スグ》であらう。皿数への形が整ふと、物数への妖怪の聯想が起る。壱岐|本居《モトヰ》の河
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