も、かうした気分を味ひ得たのは、釈場に於てゞあつたが、それも、今日では極めて淡いものになつてしまうた。時代々々の道徳の力は、あらゆるものを変化せしめずには置かない。同時に、時代々々の文芸・芸術は、此と交渉なしには生れない。現代の道徳は立派であると言へよう。だが、今日では、多少、それが固定したと思はれる。随つて、感激性を失つた。
現代の文芸・芸術が、此を重視しなくなつたのには、さうした理由があるのだと思はれる。

     二一 結び

話が、かなり岐路に分れたと思ふが、要するに、日本のごろつき[#「ごろつき」に傍線]には古い歴史がある。而して、鎌倉以後は、此が山伏しと結びつくやうになつて、著しく社会の表面に顔を出す様になつた。法術を利用して、大名にとり入るやうになつたからである。
併し、彼等が根拠地としたのは山奥で、常には、舞ひや踊りを職業とし、年の始めには、檀那の家々を祝福して廻りもしたので、其中には、山奥に残るものもあり、里に出て来たものもあり、里に出て来たものゝ中には、大名となり、また其臣下となつたやうなものもあつたが、遂に、其機を逸したものは、徳川の初期に於て人入れ稼業を創始して、大名・旗本に対しても、横柄を振舞つた。
歌舞妓芝居は、彼等の間に生れた芸術で、それには幸若舞が与つて、大きな力を致してゐる。
歌舞妓芝居は、其後非常な発達をして、もはや、昔の俤は止めぬほどになつてしまうたが、それでも尚、此等の、発生当初のものとの関係は、全然、別れ切りにはならなかつた。其間に纏綿たるものゝあつた事は考へなければならぬ。
尚、無頼の徒の芸術には、文学方面にも、言及すべきものがある。
日本の文学は、王朝時代に於ける女房の文学に始まり、次で隠者の文学が起り、此にごろつき[#「ごろつき」に傍線]の文学が提携し、此等のものゝ洗礼を受けて生れたのが、即、江戸時代の町人文学である。此等の点については、いづれ細論する日もあらう。茲には無頼の徒の芸術として、歌舞妓芝居の発生を述べた。大体、其特色は尽した積りである。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗芸術 第一巻第八・九号」
   1928(昭和3)年8、9月
※「昭和三年春、神奈川県図書館協会主催文芸講演会講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
※底本の題名の下に書かれている「昭和三年春、神奈川県図書館協会主催文芸講演会講演筆記。昭和三年八・九月「民俗芸術」第一巻第八・九号」はファイル末の「初出」欄、注記欄に移しました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング