々、其よりも更にそこに佇み、立ち走り、蹲つてゐる姥や娘、又は若者たちに、優しい一瞥――ばかりでなく、思ひあまつて、いつまでも彼等の心に残るやうな、静かな声をかけて通り過ぎて行つた旅人――堀辰雄に、「ありがたうよ」と言ひかけずに居られない気がする。

堀君の旅は、あり来りのたゞ[#「たゞ」に傍点]の道を通つて行つてるとしか見えない。其でゐて、我々の思ひもかけぬ道の辻や、岡の高みや、川の曲り角などから、極度に静かな風景や、人の起《タ》ち居《ヰ》を眺めて還る。
さう言ふことが、この人の見た日本の過去の文学の上にもあつて、「堀君」「堀君」と沢山《タクサン》さうに、友だち扱ひにしてゐるのが、すまない気持ちになることが、始終ある。
堀君ばかりは、健康が順調になつても、やつぱり今のやうな生活をしてゐるに違ひない。さう思ふ程、ちつとも易へやうのない生活をして来た人である。
堀君を思ふと、まるで自分の追憶のやうに、若い堀君の、その時々が浮んで来る。落葉松の林に雨が過ぎ、はんがりや[#「はんがりや」に傍線]の娘などの自転車が、沢《サハ》の中に光つて隠れて行く――軽井沢。そこに、子供ばなれのした頃から、しぼます[#「しぼます」に傍点]ことなく持ち続けてゐた清らかな恋ごゝろ――。此が皆、堀君の抱いて来た文学の姿ではなかつたか知らん。
東京も、大川向うで育つた堀君が、北信州の山野に、幾年もがゝりで求めたものは、何だつたらう。其をはつきり指摘しようとするのは、無|貪著《トンヂヤク》すぎる気がする。其を姑らくかう言つておいてはいけないだらうか。浅間|表《オモテ》の木の葉や、草の光り、水のせゝらぎ、鳥の飛び立つ翼の音――さう言ふ感覚を漉して来ないでは、ふらんす[#「ふらんす」に傍線]の王朝文学を、そつくり[#「そつくり」に傍点]うけとることの出来ない訣があつたのだらう。謙虚な心の堀君は、固よりそんなことを思うた筈はない。が、さう言ふ生活の重複があつて、さう言ふ所から、日本の王朝時代が、正しく見えて来た堀君だと思へば、其でよいだらう。
一人を褒めるのに、も一人をけなす[#「けなす」に傍点]と言ふ行き方は、甚だ不幸な方法で、私などは、其をせぬ[#「せぬ」に傍点]ことにしてゐるのだが、今の場合あまり適切に、一言二言で言ひきつてしまふことが出来るから、さう言ふ見方をさせて貰ふ――のだが、過ぎ去つた芥川龍之
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