らしいものは推察出来なくなつてしまつてゐることは、上方のさかい[#「さかい」に傍線]と、ちつとも変らぬ程度なのである。
敬語観の基礎[#「敬語観の基礎」は太字]
それは唯、恰も昔の感動詞か、置き字・挿入語と言つた風にしか受けとれない。一番聯想の近いのは、柳田先生の触れてゐられる「ぢや」「だ」等の「である」――系統のものとして拡げて考へれば、その方向へ更に展開して見ることが出来るやうな感じさへする。
敬語系統の語づかひに馴れなかつた地方人は、標準語として這入つて来た敬語・丁寧語を、その地方言語順列の中にとり込んでも、やがて敬語・敬礼語らしい感じも失つて行くか――或は、さう言ふ敬語感をとり入れるだけの素地に乏しかつた。だがさう言ふ事を重ねて行つてる間に、地方的言語の総体感が、幾分づゝか雅馴なものになつて行つたことだけは疑はれない。
敬語を敬語として遣つてゐても、敬語習慣が、人の心に熟して来るものとは言へない。かい[#「かい」に傍線]とす[#「す」に傍線]と結合したすかい[#「すかい」に傍線]が使はれてゐても、「なさるから」「なさつたから」など言ふ感情は、初めから終りまで人々に起らないで過ぎ去つて行つた土地が多い。が対話敬語として、感じるといふ側から詞の地を柔げるものとなつて、次第に融けこんで行つた地方もあるのは、考へておかねばならぬ。
居残る標準語[#「居残る標準語」は太字]
大阪を中心とした「さかい」「さかいに」「さかいで」の過去と現在に渉つて感ぜられることは、敬語系統の語感の上で言へば、実際のところ、自分の語に品よく、甘美な感情を持たせようとしてゐるやうに見えることである。此は本来の目的にそぐはない結果だらうが、さうした所にも、この語の、わりこんだ理由の察せられるものは残つてゐる。地方文化が、可なりの高さを持つことをほのめかさうとしてゐる。さう言ふ感覚が、語感の上に行きわたつてゐるのを、我々は地方々々の方言の底に感じる。
「……すかい」が、東北へ向つて進んで行かぬ前に、上方の「すかい」は、恐らく既に「すかい」から転身して、「さかい」と言ふ音韻形をとつてゐたものであらう。極めて古い古典語に似た形が、思ひがけない地方の文献以外に、方言として残つて居ることのあればこそ、昔から、方言の存在が、古典的な意味を持つて、学者の注意を引いたのである。
我々の信頼してゐる文献上の
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