日と苦しくなり、このままでは三人が餓え死ぬよりほかなくなったので、母は一度国に帰ってくると、祖母一人を家に残して発足したという。
父の変死から家の没落、母が国へと言って発足するまでの話は、これも長い間にきれぎれに、あとさきの順序もなく聞いた話で、今では断片的にしか君子の記憶によみがえってこないのである。母の発足当時の祖母の話を思いだすと、なぜか妙に君子には抱茗荷《だきみょうが》の紋と、椿《つばき》の花が思い出される。これは決して祖母の話の再生ではなく、その話から連想される、君子自身が直接目に見た記憶に違いないのである。母の発足からなぜ抱茗荷と椿の花が思い出されるのであろうか。
君子の家の定紋がなんであったか、君子の物心のつくころには、すでに家の没落した後で、定紋のついているものなぞ、家のうちには見出せなかったが、祖母が手廻りの品を入れるために持っていたただ一つの提灯箱《ちょうちんばこ》についていた紋所は、丸のなかに四角なものが四つあったように思うから、これは丸に四つ目の紋に違いない。だから君子の記憶に抱茗荷があろうはずはないのである。椿の花にしても、君子が祖母と一緒に住んでいた山端の掘っ立て小屋の付近に椿はなかったように思うし、たとえ山のなかや、他家の庭先なぞで見たことがあるにしても、それが、母の帰国に関係があるとは思われない。君子にはもっと、特殊な記憶にしっかりと焼けつくような大きな事件のあった時と所で見たに違いないと思われるのである。
君子が母に連れられて発足してから、再び祖母のところに帰ってくるまでの話も、祖母から幾度となく聞かされたが、これは祖母自身が見ていた話ではないから、その大部分は片言まじりの君子の話か、祖母が想像して創《つく》りあげたものに違いないと君子は思っている。
朝早く、まだ明けきらぬうちに母に連れられて家を出た君子は、汽車に乗ったり、乗り替えたり、船に乗ったりしたが、居眠っていたこともあれば、よく寝ているところを揺り起こされたり途中は夢うつつで、まるきり記憶になく、最後に乗合馬車を降りてからの道がとても遠い道であったことをぼんやりと覚えている。川もあった。小さな峠も越した。どこまでつづくかと思われるほど長い田圃道《たんぼみち》もあった。垣根に山茶花《さざんか》や菊などの咲いている静かな村もいくつか通った。そうした道を君子は母の背に負われたり、また手を曳《ひ》かれて歩いたりした。そして途中でたしか泊まったはずであったが、それが一度であったか二度であったか思い出せない。ただ暗くなった田舎道を歩いたときの心細さや、低い家並の暗い田舎町にぽつんと四角なガス灯をつけたはたごやなぞのあったことを覚えている。そしてまた明くる日も同じような道がつづいた。そのとき母はたしかにお高祖頭巾をかぶっていた。
この道中の記憶は、まるで夢のようで一つも連絡がなく、思い出す道中の景色であったのか、また、旅をするようになってから見た景色であったのか、一向にはっきりけじめがつかぬのであるが、母が黒|縮緬《ちりめん》頭巾をかぶっていたことだけは間違いないと思っている。
松の木のまばらな、だらだらと長い坂を登りきると急に目の前がひらけて、遠く地平線にまでつづくひろびろとした平野があった。人家なぞも一軒も見当たらず、はるかな右手に大きな、とても大きな池があって、その池のむこうには小さな森と、それを囲む白い塀が見えた。陽はよほど西に傾いて、このひろびろとした池の水は冷たそうな光を放っていた。
母は、この小さな森を指差して君子になにか言ったが、そのとき母がなにを言ったのか、君子にはどうしても思い出せない。今になって考えてみると、これは非常に大事なことで、そのときの一言さえ思い出せたら、夢のような一切がはっきりするに違いないと君子は残念に思うのであるが、それがどうしても思い出せない。山を下って森に着いてみると、それはずいぶん広い森で、長い田圃の突き当たりに大きい、大名のお城にあるような門が立っていた。門の前に立った君子の母は、しばらく躊躇《ためら》っていたが、君子に、お前はしばらくここに待っているのだよ、お母さんはすぐに出てくるから、と言っていやがる君子をそこに待たせて、お高祖頭巾をかぶったまま門のなかにはいって行った。そして、そのままである。母はついに再びこの門から出てこなかったのである。
それから、すでに十年の月日がたっている。その時の淋《さび》しい自分の小さな姿を君子は今でもはっきりと胸に描くことができる。およそ一時間も待ったであろうか、あたりに家はなし、もちろん人通りなぞあろうはずがなく、子供心にもじっとしていることができなくなり、そっと門のなかまではいってみたが、建物なぞどこにあるのか、大きな木が何本もあって、門の外までつ
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