オジケ」た気持がそれをなし得ず一度の文通もせず氏は故人となられた次第である。
 新青年を中心とする思い出は、なかなか多いのであるが、なお思い出の多いのは「ぷろふいる」である。故人となった加納哲が、熊谷さんが探偵雑誌を出そうと言っていられるがどうだろうとの相談を受けたとき、到底長続きはすまいと思ったが、加納哲が少くとも一年は絶対にやめないと熊谷さんが言って居られるというので、それではということになり関西在住の探偵小説作家に支援を乞うて、いよいよ創刊号を出すことになり四條の八尾政で創刊記念の会を開いた。その時集った人達は西田政治さん、山下利三郎さんを筆頭に十人ばかりであったと記憶する。加納哲の編輯で創刊号を出したが、毎号赤字続きで、いつ廃刊になるかと、少々ビクビクもので居たところ、一年が二年経っても廃刊にならず、遂に五年も続いた。東京方面では、熊谷というのは一体何者か京都からこんな雑誌が出て五年もつづいているのは一つの奇蹟であると云った人もあったそうである。全く私などもこれが五年続いたには驚ろいていた次第である。
 その当時は「ぷろふいる」を中心に神戸をはじめ名古屋、京都、大阪、はては仙台、札幌、遠くは大連にまで探偵小説クラブという会が出来て同好の連中が集まり毎月例会の消息を知らせてくるという盛況ぶりであった。この「ぷろふいる」の編輯に九鬼澹君が当るようになり、中央との関係がますます深くなって来たので、京都にあった編輯部を東京に移したのであったが、さすがねばり強かった「ぷろふいる」も、東京へ移ったのが一つの逆効果となり「探偵クラブ」と改題したものの遂に廃刊になってしまった。
 この「ぷろふいる」が日本探偵小説壇に残した功績は相当高く買ってよいと思う。例えばその功績のなかでも探偵小説評論を生んだことである。当時「大衆文学」は批判の対象とはならず探偵小説も然りであったが「ぷろふいる」では盛んに批評をやり遂に相当まとまった評論を生むに至った。
 その中でも木々高太郎氏の探偵小説は芸術品たり得るという所謂『探偵小説芸術論』と甲賀三郎氏の探偵小説は本質的に通俗作品であって芸術品たり得ない、という所謂『探偵小説通俗論』の論争である。これは五ヶ月に亙って論争せられ、それに江戸川乱歩氏が木々説を支持したり大変華やかな筆論であった。はては甲賀氏一流の筆法で感情論にまで及ぶに至って終ったが
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