の心から、あなたの姿は永遠に消えないからです。
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いのちをかける何物をも持たぬ閑枝にとっては、この主の知れない手紙は、大きな心の刺戟であった。
原稿用紙へ、ペンで小さく書てある字を、瞶めていると、その一線一画にさえ、どうやらなつかしさを覚えてくるのであった。閑枝は何とはなしに、その手紙を、鼻にあてて見た、そこにはほのかな、紙とインクの香があった。また封筒を手に取って見た。落付いた行書で、閑枝の名前が、やや大きく書かれてあった。見も知らぬ人の手によって、書かれた自分の名前、それが何か、宿命とか、因縁とか、云うような決定的なもの[#「もの」に傍点]が、この見も知らぬ手紙の主との間に、結ばれているのではあるまいか、と云うような、魅力を持った不安が感ぜられるのであった。左の肩に、正しく貼られた切手には、ハッキリとした「山代《やましろ》局」の消印があった。
(三)
そのあくる日、閑枝は、一人で山中へ行って見た。黒谷橋から断魚渓に沿うて、蟋蟀《こおろぎ》橋へ上った。岩を咬む急|潭《たん》が、ところどころでは、淵となって静かな渦を巻いていた。そこには背の黒い小さな川魚が、静かに遊んでいた。岩の上に佇んでじっと覗きこんでいると、またしても閑枝の心に死と云うことが考えられる。が、その死と云うひろがりの、空虚ななかに、未知の手紙の男の姿がはっきりと、幻覚となって現れるのであった。
帰りの電車では、山代線で、動橋《いぶりばし》行きを待合す間に、閑枝は山代の町を歩いて見た。駅の前通りを、ほんの二丁程も歩くと、そこの右側に「山代郵便局」があった。無名の手紙は、いつもこの局の消印で来る。片山津《かたやまづ》に郵便局があるのに、何故ここまで投函にくるのであろうか、そんな軽い疑念に、たださえ遅い足のはこびが、一層緩くなったとき、「山代郵便局」と白ペンキで書き込んだ、ドアが内側から、ギーと低い音を立てて、静かに開いた、そして其石段の上に、一人の若い男が現れた、閑枝は、何故とはなしに、ハッと思った、そして幾分狼狽した心で、歩を移した。
そのあくる日の夕方、閑枝がいつもの通り湖畔の散歩から帰って見ると白い角封筒が机の上に置かれてあった。
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私の第一信を、あなたは、どう云う気持ちでお読み下さったでしょうか……、それは、あなた
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