ッと抱いて居ることが出来なくなりました。この湖畔の小さな温泉町に、あなたの姿を見ることができたと云う喜びを………。
 これから私は、あなたに手紙を差上げることを日課とするかもしれません。それは私のこの心の喜びが、あなたを不快にしないだろうと信ずるからです。お互に病を養うものに取っては、慰めが一番大切だと思いますから………。
[#ここで字下げ終わり]

 この手紙は今、自殺を思った閑枝の心に、大きなすき間をつくってしまった。も一度繰り返して読んでみよう、と思っているところへ、姉が上って来た。
「いつの間に、帰って来たの、あまり長く潟のそばに居ては、よくないと思って心配していたの」
 姉は、窓のガラス障子を細目に開けて、押入れから、夜具を出しながら、
「明日、伊切の浜へ行かない、義兄さんもお休みだから、なかなかいいとこよ」
 閑枝は、手紙をそっと机の下に押込みながら、
「ええ、行ってもいいわ、だけれどもまた此前見たいじゃ………」
「なにね、もう大丈夫よ、病気だってよほどよくなっているんだし、それにあすこには自動車があるしするから………」
「義兄さん、今晩はかえらない」
 姉は、部屋の片隅にふとんを敷いて了《しま》うと、火鉢のそばに座りながら一寸そこの置時計を眺めて、
「今朝金沢へ行ったので八時頃には帰るって………、もう帰ってくる時分よ」
 停車場には、今電車が着いたらしく、四五人の、人の足音が入りみだれて、家の前を通ったが、すぐにまた、もとの静かさにかえった。兄が今の電車で帰ったらしく、くせのある静かな咳払いが聞えたと思うと、二階へ上って来た。
「おかえり」
「おかえりなさいまし」
 兄の着替えを手伝ながら姉は、
「明日、閑さんと私を、伊切の浜へ連れて行って下さいね」
「それもいいな、しかしもう日中は少し暑くはないかな……。それは、そうと閑枝、お前弥生軒で写真を写したそうだね」
「ええ、一寸今日、あの前を通ると写して見たくなって……」
「今日電車の中で、弥生軒のおやじに会ったら、『お嬢さんを撮らして貰いました』と云って喜んでいたよ、しかし此辺の写真屋は、とても下手だからなア」
 食事のために、兄夫婦が下へ下りてゆくと、閑枝は、机の下から手紙を出して見た。
 なんでもない手紙だが、閑枝の自殺の機会を奪ってしまった。読みかえして見ると、その手紙からは、病苦になやむものの、淋
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