いたことは一度も見たこともなく、また画を描くと云うことを聞いたことさえもない。
夫がはたして手紙を書いた未知の男であるなら、今日までそれを黙って居よう筈もない。なんのために夫はそれを語らなかったのであろうか。斯う思うと、夫の筆跡と手紙の筆跡とは、似ては居るようであったが、どこかに違ったところがあるようにも思われるのであった。しかし閑枝は、その筆跡なぞを比べてその真偽を究めようなぞとは思わなかった。また夫にそれを確かめて見ようとも思わなかった。ただ、なんとはなしに、静かな、平和な光りのなかに、思うがままに開かせてきた空想の華を、無残にも引きちぎられた悲しみとも、憤りとも、名状し難い不快な気持であった。
夫は、その夜遂に帰って来なかった。
追憶と夢の一夜が明けた。
時計を見ると九時であった。
漸く床から出た閑枝は、朝の身仕舞もものうく、そこの姿見に顔を写して見た。そして蒼白く細い自分の顔に両手を当てて見た。
そっと襖が開いて女中がはいってきた。
「お目覚めで御座いますか、只今、あの………旦那様からお電話で御座います」
「そう………」
閑枝は立ち上ろうともしなかった。女中は、そこにもじもじとしていたが、
「あのう……、如何いたしましょう」
「そうね………」
力なく電話室に歩を運んだ閑枝が、受話器を耳に当てると、すぐに元気な夫の声が響いた。
「閑《しず》さんか、今朝の京都新聞を見たかい、わたしもね、お前の病気を癒してやろうと思ってずいぶん苦労したが、もうこれからは二人共幸福になれるよ、早うお見、今朝の京都新聞の三面を………」
部屋に帰った閑枝は、もの憂い心で新聞の頁を繰った。そしてその三面を見ると、息詰るような驚きに打たれて、我知らず新聞をとりあげた。
その三面には、かつて片山津で盗まれたと云う自分の写真が載っているではないか。おののく心を静めながらその見出しを読むと、
『佝僂男の失恋自殺』として「美人の写真を挟んだ日記を残して」と、割注が施してあった。そして身元不明のため遺留品の写真に「加賀片山津弥生軒」とあるので同地方へ照会中であると結んであった。
仙人掌のなかの顔は笑っていた。蒼白い顔に笑を浮べた閑枝はいつまでも、その画に向ってなにごとかを囁き続けた。
[#地付き](一九三二年一月)
底本:「幻の探偵雑誌6 「猟奇」傑作選」光文社文庫、光文
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