(六)

 夫は今しがた書斎を出て行ったばかりである。今自分から和服に着換えて出てゆく夫の行先は大体判ってはいるが、そんなことに労される閑枝の心ではなかった。ただじつなげに、そのままそこの椅子に腰を下した。
 秋の西陽が窓掛の隙間を通して、絨氈の上に落ちていた。
 何の気もなく、フト夫のテーブルを見ると、そこに一冊のノートが置かれてあった。手に取って見ると、それは夫の蔵書目録の一部であった。ただ無関心にその頁を繰っていった閑枝は、吸付けられるようにある頁に視線をそそいだ。そこには、「啄木詩集」と云う活字が凸版のように浮上っていた。そして、それだけではなかった。その「詩集」の部分は赤インキで抹消し、その備考欄には、同じ赤インクで、次のように記されてあった。
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 S氏におくる。K温泉にて。昭和二年六月十八日。
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 閑枝の空虚《うつろ》な心は、押し潰されるような驚きに打たれた。全身がわなわなと慄えた。青白い顔に血の気が上った。
 閑枝は、むさぼるように頁を繰った。それは、その目録から夫の日記の索引を求めるためだったが、その目録に日記はのせてなかった。閑枝はその目録を持ったまま、その室に隣った夫の書庫に駈け入って書架の各段を注意深く見ていった。書籍の背皮に光る金文字が気を焦つ閑枝の目にチラチラとうるさく映った。最後の小さな書籍箪笥には鍵が掛っていたが、鍵はその抽斗から直ぐに見付かった。そして其下段の隅に十冊ばかりのノートを発見することができた。それを引出して見ると果して日記であった。その表紙に記された年月によって一冊ずつを繰って見ると、その日記は昭和二年の九月で終っている。一月、二月と順に繰って見た。閑枝の胸は名状し難い感情のたかぶりに波打って、一冊ずつを繰る指先は慄えていた。
 だが、五、六、七、八の四ヶ月は見当らなかった。ただ初めの二頁ばかりを記入してあとは白紙のままの九月分を見出したままであった。何度繰返して見てもその四ヶ月分を見出すことができなかった。が、その九月分の中央に一枚のはがき[#「はがき」に傍点]が挟まれているのを発見した。そのはがき[#「はがき」に傍点]は夫に宛てたもので、差出人は加賀片山津温泉場宝来旅館、裏をかえしてみると、
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 謹啓、御滞在中は万事不行届の段幾重
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