と言い、僧に向かいて汝自身の祈祷一俵を磨場《つきや》に持ち往き磨《ひ》いて粉にして朝食を済ませよなど罵りしに同じ。『智度論』に、恭敬は礼拝に起こると言えり。今すでに礼拝すべき神社なし、その民いかにして恭敬の何物たるを解せんや。すでに恭敬を知らぬ民を作り、しかして後日長上に従順ならんことを望むるは、矛盾のはなはだしきにあらずや。かく敬神したきも、敬神すべき宛所《あてどころ》が亡われおわりては、ないよりは優れりという心から、いろいろの淫祀を祭り、蛇、狐、天狗、生霊《いきりょう》などを拝し、また心ならずも天理教、金光教など祖先と異なる教に入りて、先祖の霊牌を川へ流し、田畑を売りて大和、備前の本山へ納め、流浪して市街へ出で、米搗きなどして聊生《りょうせい》する者多く、病を治するとて大食して死する者あり、腐水を呑んで失心するもあり。改宗はその人々の勝手次第なるも、かかる改宗を余儀なくせしめたる官公吏の罪|冥々裡《めいめいり》にはなはだ重し。合祀はかくのごとく敬神の念を減殺《げんさつ》す。
 第二に、神社合祀は民の和融を妨ぐ。例せば、日高郡|御坊《ごぼう》町へ、前年その近傍の漁夫が命より貴ぶ夷子《えびす》社を合併せしより、漁夫大いに怒り、一昨夏祭日に他大字民と市街戦を演じ、警吏等の力及ばず、ついに主魁九名の入監を見るに及び、所の者ことごとく合祀の余弊に懲《こ》り果てたり。わが邦人宗教信仰の念に乏しと口癖に言うも、実際合祀を濫用して私利を計る官公吏や、不埒千万にも神社を潰して大悦する神職は知らず、下層の民ことに漁夫らは信心はなはだ堅固なる者にて、言わば兵士に信心家多きごとく、日夜|板《いた》一枚の命懸けの仕事する者どもゆえ、朝夕身の安全を蛭子《えびす》命に祷り、漁に打ち立つ時獲物あるごとに必ずこれに拝詣し報賽《ほうさい》し、海に人落ち込みし時は必ずその人の罪を祓除《ふつじょ》し、不成功なるごとに罪を懺悔して改過し、尊奉絶えざるなり。しかるに海幸《うみさち》を守る蛭子社を数町|乃至《ないし》一、二里も陸地内に合併されては、事あるごとに祈願し得ず、兵卒が将校を亡《うしな》いしごとく歎きおり、ために合祀の行なわれたる漁村にはいろいろの淫祀が代わりて行なわれており、姦人の乗じて私利を営むところとなる。これ角《つの》を直《ただ》さんとして牛を殺せるなり。
 学者や富豪に奸人多きに引きかえ、下民は常に命運の薄きを嘆くより、したがって信心によって諦めを啓《ひら》かんとする念深く、何の道義論哲学説を知らぬながらに、姦通すれば漁利|空《むな》し、虚言すれば神罰立ちどころに至ると心得、ために不義に陥らぬこと、あたかも百二十一代の至尊の御名を暗誦せずとも、誰も彼も皇室を敬するを忘れず、皇族の芳体を睨《にら》めば眼が潰るると心得て、五歳の髫※[#「※」は「齒+つりばり」、501−8]《ちょうしん》も不敬を行なわぬに同じ。むつかしき理窟入らずに世が治まるほど結構なることなく、分に応じてその施設あるは欧米また然り。フィンランド、ノルウェーなどには、今も地方に吹いたら飛ぶような木の皮で作った紙製[#「紙製」に〔ママ〕の注記]の礼拝堂あり。雪中に一週に一度この堂に人を集め、世界の新聞を報じ、さて郵便物の配布まで済ませおる。老若男女打ち集い歓喜限りなし。別に何たるむつかしき説法あるにあらず。英国なども、漁村には漁夫|水手《かこ》相応の手軽き礼拝堂あり。これに詣る輩むつかしき作法はなく、ただ命の洗濯をするまでなり。はなはだしきは、コーンウォール州に、他州人の破船多くて獲物多からんことを祈り、立てた寺院すらあるなり。それは過度ならんも、漁夫より漁神を奪い、猟夫より山神を奪い、その祀を滅するは治道の要に合わず。いわんや、山神も海神もいずれもわが皇祖の御一族たるにおいてをや。神威を滅するは、取りも直さず、皇威に及ぼすところありと知るべし。
 西洋に上帝を引いて誓い、また皇帝を引いて誓うこと多し。まことに聞き苦しきことなり。わが国にも『折焚く柴の記』に、何かいうと八幡神などの名を引いて誓言する老人ありしを、白石の父がまことに心得悪しき人なりと評せしこと出でたり。されば、梵土には表面梵天を祀る堂なし。これ見馴れ聞き馴るるのあまり、その威を涜《けが》すを畏れてなり。近ごろ水兵などが、畏き辺《あた》りの御名を呼ばわりて人の頭を打ち、また売婬屋で乱妨《らんぼう》などするを見しことあり。言わば大器小用で、小さき民や小さき所には、たとい誓言するにも至尊や大廟の御名を引かず、同じく皇室御先祖の連枝《れんし》ながらさまで大義に触れざる夷子《えびす》社や山の神を手近く引くほどの準備は縦《ゆる》し置かれたきことなり。教育到らざる小民は小児と均《ひと》しく、知らずして罪に陥るようのこと、なるべく防がれたし
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