なへん+息」、読みは「よめ」、498−10]を伴い参詣するところあり。田舎には合祀前どの地にも、かかる質樸にして和気|靄々《あいあい》たる良風俗あり。平生|農桑《のうそう》で多忙なるも、祭日ごとに嫁も里へ帰りて老父を省《せい》し、婆は三升樽を携えて孫を抱きに※[#「※」は「おんなへん+息」、読みは「よめ」、498−12]の在所へ往きしなり。かの小窮窟な西洋の礼拝堂に貴族富豪のみ車を駆《は》せて説教を聞くに、無数の貧人は道側に黒|麪包《パン》を咬んで身の不運を嘆《かこ》つと霄壌《しょうじょう》なり。かくて大字ごとに存する神社は大いに社交をも助け、平生頼みたりし用談も祭日に方《かた》つき、麁闊《そかつ》なりし輩も和熟親睦せしなり。只今のごとく産土神が往復山道一里|乃至《ないし》五里、はなはだしきは十里も歩まねば詣で得ずとあっては、老少婦女や貧人は、神を拝し、敬神の実を挙げ得ず。
 前述一方杉ある近野村のごとき、去年秋、合祀先の禿山頂の社へ新産婦が嬰児とその姉なる小児を伴い詣るに、往復三里の山路を歩みがたく中途で三人の親子途方に暮れ、ああ誰かわが産土神《うぶすながみ》をかかる遠方へ拉《と》り去れるぞと嘆くを見かねて、一里半ばかりその女児を負い送り届けやりし人ありと聞く。西牟婁郡三川豊川村は山嶽重畳、一村の行程高野山を含める伊都郡《いとごおり》に等しと称す。その二十大字三十二社を減じて、ことごとく面川《めんこ》の春日社に併せ、宮木をことごとく伐りて二千余円に売りながら、本社へは八百円しか入らず。さてその神主田辺へ来たり毎度売婬女に打ち込み、財産差押えを受けたり。この村は全く無神になり、また仏寺をも潰しおわり、仏像を糞担桶《こえたんご》に入れ、他の寺へ運ばしむ。村長|家高《いえたか》某という者、世に神仏は無用の物なり、万事村長の言をさえ遵奉せば安寧浩福なりとの訓えなり。
 白石の『藩翰譜』に、秋田氏暴虐なりしを述べて、その民の娘、年長じても歯を黒め得ざりしと言えるをさえ苛政の例《ためし》に覚えしが、今はまた何でもなき郡吏や一村長の一存で、村民が神に詣で名を嬰児に命ずる式すら挙げ得ざるも酷《ひど》し。その状あたかも十七世紀に、英国内乱に際し、旧儀古式を全廃し、セントポール大寺観を市場と化し、その洗礼盆で馬を浴せしめ、愚民|嗷語《ごうご》して、われは神を信ぜず、麦粉と水と塩を信ず
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