を娶ったなどいう。邱処機が元の太祖に奏した疏《そ》に竜児の年三月日奏すとあり、元の時泰山に立てた碑に泰定鼠児の年、また至正猴児の年とあり、北方諸国には以前子丑寅卯の十二支なく専ら鼠牛虎兎の十二禽で年を紀した。それが支那に伝わり十二支と合併したのじゃと見える。しかし周達観の『真臘風土記《しんろうふどき》』にカンボジアでも鼠牛虎兎で年を紀す事全く支那同様、ただ馬をモミー、鶏をロカなどその国語で呼ぶだけ異なりとあれば北方に始まったのでないとある(一八八三年板、ムーラの『柬埔※[#「寨」の「木」に代えて「禾」、343−12]《カンボジア》誌』一巻一五七頁参照)。十分断言しておらぬがまずは十二禽で歳時を紀す風は支那に起って南北諸隣国へ弘まったというのだ。それから『叢考』に十二禽を十二支に当てるは後漢に始まったと論じた。しかし『古今要覧稿』五三一に、前漢の書『淮南子《えなんじ》』に山中で未の日の主人と称うるは羊なりといい、戦国の頃『荘子』が〈いまだかつて牧を為さずして※[#「爿+羊」、第4水準2−80−15]《そう》奥に生ず〉といえるを『釈文』に西南隅未地といえれば羊を未に配当したは後漢に始まった
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