なび》け得という旧信から起ったので、親の付けた名をうっかり夫と憑《たの》む人のほかに知らさなんだからだ。『扶桑列女伝』に、名妓八千代、諱《いみな》は尊子、勝山、諱は張子など記しあるも、遊女の本名を洩《も》らすと、彼はわが妻になる約束ある者など言い掛くる者が出るから、尊者の忌名と等しく隠した故、諱と書いたのだ。西洋でも人の妻を呼ぶにその夫の氏名に夫人号を添え用い、よほど親しい中でなければ本名を問うを無礼とする。支那では天子の諱を隠す余り、どう読むか判らぬ新字を拵《こしら》えたさえある(一八九五年板、コックスの『民俗学入門』五章。『郷土研究』一巻四二三頁拙文「呼名の霊」参照)。動物が自分の名や人の言動を人同様に解すると信ずるは何処の俗間にも普通で、サラワクやマレイ半島には動物が面白い事をするを見ても笑うてはならぬ、笑えば天気荒れ出し大災禍到ると信ずる者あり(一九一三年板デ・ウィントの『サラワク住記』二七四頁、一九二三年板エヴァンスの『英領北|婆能《ボルネオ》および巫来《マレー》半島宗教俚俗および風習の研究』二七一頁)。わが国でも鼠落しを掛くるに小声でその事を話し、鼠に聞えたと思えば今日はやめだなど大音で言う(『郷土研究』一巻六六八頁)。
さて一年の計は新年にありで、鼠害を減ずるため、支那で七日とか十日とかの夜、鼠の名を呼ばず馳走し、日本でも貴族の奥向きで三ヶ日間ネズミと呼ばずヨメと替え名したのだ。明暦二年板|貞室《ていしつ》の『玉海《ぎょっかい》集』に「ヨメをとりたる宿の賑《にぎわ》ひ」「小鼠をくはへた小猫ほめ立てゝ 貞徳」、加藤雀庵はヨメは其角の句に見えたヨメが君の略で、『定頼卿家集』に、尼上の蓮の数珠《じゅず》を鼠の食いたりけるを見て「よめのこの蓮の玉を食ひけるは、罪失はむとや思ふらむ」、このヨメノコからヨメガ君が出ただろう、ヨメは夜目なるべしと言った(『囀《さえず》り草』虫の夢の巻)。まあそんな事であろう。かく当夜謹慎して鼠を饗するは年中の鼠害をなるべく差し控えてもらう心から出たのを、鼠はその頃交わるもの故、鼠の婚儀を祝うものと心得るに及び、和漢ともに鼠の嫁入りと称うるに至ったのだ。
今村鞆君の『朝鮮風俗集』に、正月の一番初めの子の日、農民争うて田野に出で、野原を燃す。これを鼠火戯という。かくすればこの歳野草繁茂すという。鼠が牧畜に必要な草や人間大事の穀物を損ずるは夥しいものあり。欧州の尾の短い鼠ハムスターというは、秋になると穀豆を掠《かす》めて両頬に含み両手で堅く押し付けてはまた含み込み、巣に返って吐き出し積んで冬蟄《とうちつ》する間の備えとす。一匹で穀六十ポンド、またハンドレッド・ウェートの豆を備えたもあるという(ウッドの『動物図譜』一)。ピンカートンの『海陸紀行全集』一に収めたマーチンの『蘇格蘭《スコットランド》西島記』に、ロナ島へどこからとも知れず鼠群れ来って島中の穀を食い尽した上、泣き面に蜂とか、水夫が上陸してただ一疋あった牛を掠め去ったから、全く食物なくなったのに一年間糧船来らず、全島の民が死に尽した。またロージル村に夥しく鼠生じて、穀物、牛乳、牛酪《バター》、乾酪《チーズ》口当り次第平らげたので、住民途方に暮れ猫を多く育てたが、猫一疋に鼠二十疋という多数の敵を持ちあぐんで気絶せんばかりに弱り込んだ。ある人奇策を考え付いて、猫が一疋の鼠と闘うごとに牛乳を暖めて飲ました。すると猫大いに力附いてついに一疋余さず平らげてしまったと記す。日本にも永正元年武州に鼠多く出て、昼、孕み女を食い殺し、その処の時の食物を食い猫を鼠皆々食い殺す(『甲斐国妙法寺記』)。『猫の草紙』に「その中に分別顔する鼠云々、きっと案じ出したる事あり、このほど聞き及びしは近江国御検地ありしかば免合《めんあい》に付きて百姓稲を刈らぬ由。たしかに聞き届くるなり、まずまず冬中は罷《まか》り越し稲の下に女子どもを屈《かが》ませ云々」、これだけでは野鼠冬中刈り残しの稲ばかり害するようだが、『郷土研究』二巻八号矢野宗幹氏の説を読むになかなかそんな事で止まらず、伊豆国など毎度これがために草山は禿げになって春夏も冬に同じく、村々では茅《かや》で屋根をふく事ならず、牛の飼草もなく、草を食い尽して後は材木を荒らし、人民をして造林は不安心な物てふ念を抱《いだ》かせ、その害いうべからず。近頃毛皮のために鼬《いたち》を盛んに買い入れ殺すより野鼠かくまで殖えただろうと言われた。二巻九号また三宅島に多く犬を飼い出したため山猫減じ、野鼠の害多くなったと記す。朝鮮でも野鼠殖えて草を荒らす予防に、正月上子の日その蟄伏した処を焼いて野草の繁茂を謀ったので、支那で一月七日に家鼠を饗するを虫焼きと呼ぶも、本《もと》この日野鼠を焼き立てる行事があった遺風だろう。蝙蝠は獣だが翅《はね》ある故
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