出す御影なりと記す。一昨年某大臣、孟子がいわゆる大王色を好んで百姓とともにせんとの仁心より頼まれた惚れ薬の原料を採りに中禅寺湖へ往った時、篤《とく》とこの大黒を拝もうと心掛けて滞在して米屋旅館に、岩田梅とて芳紀二十三歳の丸ぼちゃクルクル猫目《ねこめ》の仲居頭あり。嬋娟《せんけん》たる花の顔《かん》ばせ、耳の穴をくじりて一笑すれば天井から鼠が落ち、鬢《びん》のほつれを掻き立てて枕《まくら》のとがを憾《うら》めば二階から人が落ちる。南方先生その何やらのふちから溢《あふ》るるばかりの大|愛敬《あいきょう》に鼠色の涎《よだれ》を垂らして、生処を尋ねると、足尾の的尾の料理屋の娘というから十分素養もあるだろう、どうか一緒に走り大黒、身は桑門《そうもん》となるまでも生身《なまみ》の大黒天と崇め奉らんと企つる内、唐穴《からっけつ》になって下山しとうとう走り大黒を拝まなんだ。全く惚れ薬取りが惚れ薬に中毒したのだ。その節集古会員上松蓊君も同行したから彼女の尤物《ゆうぶつ》たる事は同君が保証する、あの辺へ往ったら尋ねやってくれたまえ。
右の『譚海』の文に拠れば鼠が神になって大黒天と現じたようだが、『滑稽雑談』二一には、大黒天神は厨家豊穣の神なるが故に、世人鼠の来って家厨の飲食倉庫の器用を損ずるをこの神に祈る時、十月の亥の日を例として子《ね》の月なる十一月の子《ね》の日を(祭りに)用ゆるなるべしと記す。『梅津長者物語』には鼠三郎、野らねの藤太等の賊が長者の宅を襲うと、大黒真先に打って出で打ち出の小槌《こづち》で賊魁《ぞくかい》を打ち殺す事あり。これでは大黒時に鼠や賊を制止|誅戮《ちゅうりく》し、槌は殺伐の具となって居る。
槌はいかにも大黒の附き物で、繁昌をこの神に祈って鼠屋また槌屋と家号したのがある。京で名高い柄糸《つかいと》を売る鼠屋に紛らわして栗鼠《りす》屋と名乗る店が出た事あり(宝永六年板『子孫大黒柱』四)。伊勢の御笥作り内人《うちんど》土屋氏は昔槌屋と称え、豪富なりしを悪《にく》み数十人囲み壊《やぶ》りに掛かりかえって敗北した時、荒木田守武《あらきだもりたけ》の狂歌に「宇治武者は千人ありとも炮烙《ほうろく》の槌一つにはかなはざりけり」、蛆虫《うじむし》を宇治武者にいい做《な》したのだ(石崎文雅『郷談』)。それから娼家には殊に槌屋の家号多く、例せば宝永七年板『御入部伽羅女《ごにゅうぶきゃらおんな》』四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衛方に及んで「したるい目付き掃部さま、これが槌屋の大黒なり」と、この娼を家の大黒柱に比べおる。四壁庵の『忘れ残り』上巻に、吉原江戸町三丁目佐野槌屋の抱《かか》え遊女|黛《まゆずみ》、美貌無双孝心篤く、父母の年忌に廓中そのほか出入りの者まで行平鍋《ゆきひらなべ》を一つずつ施したり、「わがかづく多くの鍋を施して、万治この方にる者ぞなき」とほめある。これらよりもずっと著われたは安永二年|菅専助《すがせんすけ》作『傾城恋飛脚《けいせいこいのたより》』で全国に知れ渡り、「忠兵衛《ちゅうべえ》は上方者《かみがたもの》で二分残し」とよまれた亀屋の亭主をしくじらせた北の新地槌屋の抱え梅川《うめがわ》じゃ。
槌は只今藁を打ったり土を砕いたり専ら農工の具で、大高源吾が吉良《きら》邸の門を破ったり、弁慶が七つ道具に備えたりくらいは芝居で見及ぶが、専用の武器とは見えず。
だが昔大分地方の鼠の岩屋等の強賊、皇命に従わざりしを景行天皇ツバキの槌を猛卒に持たせ誅殺した事あり(『書紀』七)、この木は今も犬殺しも用い身に極めて痛く当る。『史記』には槌を以て朱亥《しゅがい》が晋鄙を殺し、劉長が審食其《しんいき》を殺した事あり。北欧の雷神トール百戦百勝するに三の兵宝あり。まず山を撃たば火が出る大槌、名はムジョルニルで、トールこれを以て山と霜の大鬼を殺し、また無数の鬼属を誅した。次は身に巻けば神勇二倍する帯で、第三には大槌を執る時の手袋だ(マレーの『北欧考古編』ボーンス文庫本四一七頁)。わが邦でも時代の変遷に伴うて兵器に興廃あり。砲術盛んならぬ世には槍を貴び、何人槍付けたら鼈甲《べっこう》柄の槍を許すとか、本多平八の蜻蜒《とんぼ》切りなど名器も多く出で、『昭代記』に加藤忠広封を奪われた時、清正伝来の槍を堂の礎にあて折って武威の竭《つ》きたるを示したとある。槍より先は刀剣で剣の巻など名刀の威徳を述べて、これさえあれば天下治まるように言いおり、また弓矢を武威の表徴のごとく言った。支那でも兵器の神威を説いたもので、越王泰阿の剣を揮《ふる》えば敵の三軍破れて流血千里といい、湛盧の剣は呉王の無道を悪んで去って楚に往ったといい、漢高祖が白蛇を斬った剣は晋の時自ら庫の屋を穿って火災を遁《のが》れ飛び去った由(『淵鑑類函』二二三)。漢より晋までこの剣を皇帝の象徴
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