椏篇』初板三章に、農家が恩威並び示して田畑の害物を禁厭《まじない》する諸例を挙げていわく、古ギリシアの農書『ゲオポニカ』に百姓がその耕地より鼠を除かんと欲せば、一紙に次のごとく書くべし、ここな鼠にきっと申し渡す、貴様も他の鼠もわれを害してはならぬ、あの畑を汝に遣《や》るから速く引っ越せ、今後わが地面で二度と貴様を捕えたら、諸大神の母かけて汝を七つ裂きするぞと、かく書いた紙の字面を上にして自分の畑にある少しも切れていない石に貼り付くるがよいと。注にいわく、ここに言えるあの畑とは隣り持ちの畑だと、つまり自分の畑さえ害せずば隣人はどんなに困っても構わぬという書式だ。不心得千万なようだが、都市は知らずこの鼠駆りに少しも違わぬ遣り方が日本で現に地方に行われおり、たとえば警察で手におえぬ代物《しろもの》が田辺町へ滞在すると警官がその者を捉えて町から定規の里程外へ送り出す。するとその者はまたそこで悪事をなし、そこからまた警官がよい加減に次へ次へと送り出す。それ故寒村僻里を流浪さえすれば悪事のやり次第という風で、その所の者は毎度迷惑絶えず、実に昭代の瑕瑾《かきん》じゃ。フレザーまたいわく、あるいは害物の一、二に恩を施し他は一切手厳しく扱う事もある。東インド諸島の一なるバリ島では、田を害する鼠を多く捕えて焼き殺し、ただ二疋を宥命して白布の袋に餌を入れて与え、百姓一同神のごとく拝んだ後放ち去る。ボヘミヤの某所では、百姓が通常の鼠を釈《ゆる》さず殺せど白鼠を見付くれば殺さず、窓に巣を作ってこれを畜《か》う。それが死ねばその家の福尽き常の鼠が殖えるそうだ。シリア人の畑が毛虫に犯さるれば、素女を聚《あつ》めてその内の一人を毛虫の母と定め、毛虫多い処へ伴れ行きて毛虫がここを去るから御気の毒ですと悔みを述ぶ。露国では、九月一日に蕪《かぶら》等諸菜で小さい棺《ひつぎ》を製し、蠅などの悪虫を入れ悲歎の体《てい》して埋めると。紀州などで稲の害虫ウンカを実盛《さねもり》と呼ぶ。稲虫《いなむし》の一名|稲別当《いなべっとう》、それを斎藤別当に因んで実盛《さねもり》というに及んだ由(『用捨箱』下)。この虫盛んな年は大勢|松明《たいまつ》行列して実盛様の御弔いと唱え送り出す。まず擬葬式をして虫を死絶すべき禁厭《まじない》だ。上に引いた支那で上子日に家鼠を饗して炒雑虫というを考うるに、最初この日野を焼いて野鼠蟄虫を鏖殺《おうさつ》し、その夜家鼠を饗して、汝ら野鼠ごとく焼き殺さるるを好まずば年中音なしくせよ、さすればこの通り饗応しやると、恩威並び行いしより変って鼠の嫁入り祝いとも、子の日の遊びともなったと惟《おも》う。上子の子の剋《こく》、臼を搗《つ》けば鼠種尽きるというも実は本末顛倒で、鼠が殺し尽されて今年の収穫は早この通りと、臼をつく多忙を示し祝う意に出たと考う。マレイ人は野を焼かば鼠を殺すからその祟りで小児が病むと信ず(一八九六年板、英訳ラツェルの『人類史』一巻四七二頁)、クルックの『北印度俗教および民俗』二四二頁にはインド人鼠を殺すを大罪とし、鼠騒げば家婦日を期して餅をやるから静まれといわば静まる、が、長からぬ内にまた始めると載す。
露国でフィリップ尊者忌の夜珍な行事あり。油虫を駆除するためにその一疋を糸で括《くく》り、家内一同だんまりで戸より引き出す内、家中の一婦髪を乱して窓に立ち、その虫が閾《しきみ》近くなった時、今夜断食の前に何をたべると問うと、一人牛肉と答え、油虫は何をたべると問うと油虫は油虫をたべると答う。まじめにこの式を行えば油虫また生ぜずという。旧信者はこんな式で虫を駆除するは宜《よろ》しからず、かかる虫も天から福を齎《もたら》すから家に留むるがよいと考える(一八七二年板ラルストンの『露国民謡』一五五頁)。支那人は大きな牡鼠一疋を捉え小刀でそのキン玉を切り去って放てば、鼠家に満つるも殺し尽す事猫どころでないという(『増補万宝全書』巻六十)。露人もかくのごとく油虫を同士打ちで死に尽さしめ、さてその全滅を歎き悲しむ表意に、親族が死んだ時のごとく髪を乱してかの式を行うのだ。油虫ごとき害虫も家に留むれば福を齎すというはよく考えると一理あり。世界にまるで不用の物なし。多くの菌類や黴菌《ばいきん》は、まことに折角人の骨折って拵えた物を腐らせ悪《にく》むべきの甚だしきだが、これらが全くないと物が腐らず、世界が死んだ物で塞《ふさ》がってニッチも三進《さっち》もならず。そこを醗酵変化分解融通せしめて、一方に多く新たに発生する物に養分を供給するから実際一日もなくてならぬ物だ。鼠も昔より国に盗賊家に鼠と嫌われ、清少納言も、穢《きた》なげなる物、鼠の住家《すみか》、つとめて手|晩《おそ》く洗う人、『尤《もっとも》の草子《そうし》』に悪《にく》き者、物をかじる鼠、花を散らす鳥
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