、今按ずるに年の始めには万事祝詞を述べ侍《はべ》る物にしあれば、寝起きといえる詞《ことば》を忌み憚《はばか》りてイネツム、イネアクルなど唱《とな》うる類あまたあり。鼠も寝のひびき侍れば、嫁が君と呼ぶにてやあらんといえり。この名あるより鼠の嫁入りという諺は出で来しなるべし。また鼠を夜の物、狐を夜の殿という、似たる名なり。思うに狐の嫁入りは鼠の後なるべし」と記す。『抱朴子《ほうぼくし》』内篇四に、山中|寅日《とらのひ》、自ら虞吏と称するは虎、当路者と称するは狼、卯日《うのひ》丈人と称するは兎、西王母と称するは鹿、子の日社君と称するは鼠、神人と称するは蝙蝠《こうもり》など多く例を挙げ、いずれもその物の名を知った人を害し能わずとある。これは十二支の異なる日ごとに、当日の十二禽の属たる三十六禽が化けに化けて自ら種々の名を称え行く偽号だ。これに反しスウェーデンで牧女どもの言い伝えに、昔畜生皆言語した時、狼が「吾輩を狼と呼ぶな仇するぞ、汝の宝と呼べば仇せじ」と説いたとかで、今にその実名を呼ばず、黙った者、鼠色の足、金歯など唱え、熊を老人、祖父、十二人力、金足などと称う。また受苦週(耶蘇《ヤソ》復活祭の前週)の間、鼠、蛇等有害動物の名を言わず、これを言わば年中その家にそんな物が群集すると伝う(一八七〇年板ロイドの『瑞典《スエーデン》小農生活』二三〇頁、二五一頁)。古エジプト人は箇人は魂、副魂、名、影、体の五つから成り、神も自分の名を呼んで初めて現われ得、鬼神各その名を秘し、人これを知らば神をしてその所願を成就せしめ得と信じ、章安と湛然《たんねん》の『大般涅槃経疏《だいはつねはんぎょうそ》』二には、呪というはその実鬼神の名に過ぎず、その名を唱えらるると鬼神が害をなし得ぬとある。ちょうど夜這《よば》いに往って熊公じゃねえかと呼ばるると褌を捨てて敗亡するごとく、南無阿弥陀仏の大聖不動明王のと名号を唱えらるると、いかな悪人をも往生せしめ、難を救わにゃならぬ理窟だ。さればわが国史にも田道将軍の妻、形名君の妻と、夫の名のみ記して妻の名を欠き、中世、清少納言、相模《さがみ》、右近《うこん》と父や夫や自分の官位で通って実名知れぬ才媛多い。仏領コンゴに姉妹の名を言い中《あ》てて両人とも娶り得た噺《はなし》あるごとく(一八九八年板デンネットの『フィオート民俗記』四章)、女の実名を知ったら、その女を靡《
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