妻を説き、その生むところの女子を后が産んだ男子と取り換えた。それから王に詣でて達摩后は女子を生んだと告げたので、王しかる上はわれ安心なりとて再び問わなかった。后が生んだ男子は漁師に養われたが、ようやく長じて読み書きを好み、殊に詩を巧みに作ったので詠詩漁児と呼ばれた。
宰牛大臣一日達摩后に后が産んだ男児今は詩人になり居ると告げると、后|何卒《なにとぞ》一目逢わせてほしいと望んでやまず。宰牛謀計してその子に魚を持たせ、魚売りの風をして母を訪《と》わしめた。相師またこれを見て、この魚売りは必ず我王を殺して王位を取るべしと言った。王これを聞いて群臣に命じ捕えしむ。漁師の子これを知って諸処逃げ廻りついに一老姉にかくまわる。老姉|謀《はか》ってその身に芥子《からし》と胡麻の油を塗って死骸に似せ(シェッフネルの『西蔵諸譚』にこうある。唐訳には大黄を塗って死人の色のごとくすと出づ)、林中へ舁《か》き往かしむ。その時林中に花果を採る人ありて、漁師の子が死人中より起き出でて走るを見、逐《お》えども及ばず。そこへ王の使者来って箇様箇様の人相の者を見ぬかと問うに、ちょうど只今見た、この路から去ったと指《さ》し示すに随い王使は追い往く。漁師の子は走って山里に到り、染工に就いて隠れ家を求めた。染工これを衣嚢で重ね包み、驢に載せて里外の浴場に運び去った。そこで漁師の子起き上り辺《あたり》を見廻し立ち去る処を、また見た者ありて王の使に語ったから王の使はまた追って往った。漁師の子は遁《のが》れて靴工の宅に入り仔細を明かし、踵《かかと》を前に指を後にした靴一足を拵《こしら》えもらい、穿《うが》って村を出るに高い牆《かき》で取り廻らして踰《こ》ゆる事ならぬから、やむをえず水|竇《あな》中から出た。王の使追い到り、その脚跡を尋ねて靴師の家に至ったが、本人は遠く逃げ去りいた。
この靴を逆さまに履《は》いて追う者の眼をごまかし無難に逃げ果《おお》せるという事よくあるやつで、『義経記』五の六章に、義経吉野を落る時、弁慶誰も命惜しくば靴を倒《さか》しまに履きて落ちたまえと勧め、判官その所由を問うに、西天竺しらない国の王、はらない国王に攻められ逃げる時、靴を逆さまに穿《は》いて命を全うし、再び兵を起して勝軍した故事を、法相《ほうそう》三論の遺教中から学びいたと答えたと記す。津村正恭の『譚海《たんかい》』二に、丹後の由良の湊《みなと》に逆沓《さかぐつ》という故事あり、つれ王丸という冠者、三荘太夫が許《もと》を逃れて京へ登る時に、雪中に沓を跡になし穿きて逃れたる故、雪に附ける足跡奥の方へ行けるように見えしかば、追手の者奥の方を尋ね求めし故、遁れて京へ入る事を得たりという。
漁師の子は逆さま靴の謀で一旦逃げ延びたが、今更行き処がないので身を水中に投げると、竜王これをその宮中に迎え入れた。日初王聞きて諸呪師を召集し往きて竜を呪せしむ。その時一の夜叉名を賓伽羅《びんがら》と呼ぶ者曠野に住んで血肉を食い、その住む処樹木すら枯れ獣畜も逃れ去るほど故、人はとても活き得ず。漁師の子竜王己れの故に呪せられ苦しむを見兼ねて、この曠野に逃る。竜王呪師に向い、彼既に曠野の夜叉に食われた上は、我を呪し苦しめても益なしという故、呪師ども還って王に告げ、王も一安心しながらなお念を入れて漁師の子の成り行きを尋ねしめた。夜叉は諸《もろもろ》の悪狗《あくく》とともに一処にあって漁師の子の来るを見、これは自分を殺しに来た者と心得、狗をして追い捉えしむると、漁師の子素早く木に上り狗ども下にあって守る。夜叉来ってこの野へ来る人間は皆我に食わる、汝も下り来りて食われよというと、我命ある内は下らぬというから、夜叉も気長く守って樹下に眠る。その上から漁師の子が自分の衣を脱いで擲《なげう》ち、あまねく夜叉の体を覆うと、狗ども夜叉を人と心得、寄り集まって食い尽したとある処が、白竜《はくりょう》魚服《ぎょふく》して予且に射られた故事に似て居る。
狗どもが夜叉を食い居る間に漁師の子は脱れ走った。途上で我が叔父(母の兄弟らしい)世を捨て仙人となり居る者ありと聞くから、その人を憑《たの》もうと惟《おも》い、山を分けて尋ね往く最中、王の使いまた追い来って捕えかかる故、決心して谷へ身を投げた。その髻《もとどり》を王使が捉えて手中に留まったのを王に示して、この通りかの者を誅したと告げたので、王大いに悦び重く賞賜した。時に仙人の住所を護る神来って仙人に告げたは、汝の外甥児《がいせいじ》今苦悩に逼《せま》られ居るを知らずやと。仙人我れ我甥を懸念せずんば只今死すべしと答えた。この仙人男を女に、女を男に変ずる呪法を知っており、すなわちその法を外甥に伝えた。今は怖るる事なし、思う所へ往けというから、外甥その法を行うて自ら美女に化し、相貌殊好、特に常倫に異なり。すなわち婆羅尼斯に往き王の園苑中に住《とど》まる。守苑人美女を見て希有《けう》の思いをなし速やかに王に告げ、今美貌成就せる少女ありて現に苑内にありという。王宜しく速やかに連れ来るべしと命じ、すなわち大威儀を以て僕従をして王宮に迎え入れしめ、王かの美女を見て深く愛著を生じた。美女すなわち王を閑処につれ行きてこれを殺し、たちまち呪を以て自身を男に戻し、王冠を戴き、委細を宰牛大臣に告げたので、諸臣この漁師の仮子を冊立《さくりつ》して王とした。その時諸天|偈《げ》を説いて曰く、頭を断たぬ内は殺したと言えぬ、また起ちて能くかくのごとき業を作《な》す、事宜《じぎ》に随って他を損ずるも害と名づけず、白膠王の子を害したもののごとしと。橘好則が、平維茂《たいらのこれもち》の頭を慥《たし》かに取って、此奴《こやつ》万一生きもや返ると鞍の鳥付きに結い付けぬ内は安心出来ぬといったに同じ(『今昔物語』二五)。
明の李卓吾《りたくご》の『続開巻一笑』四に、唐寅《とういん》字《あざな》は伯虎、三月三日において浴澡す。一客これを過《おとずれ》て見る事を求む、浴を以て辞す、客悦ばずして去る。六月六日に及び公往きてこの客に謁す、また辞するに浴するを以てす、公戯れにその壁に題して曰く、〈君昔我を訪えば我沐浴す、我今君を訪えば君沐浴す、君昔我を訪いしは三月三、我今君を訪うは六月六〉と、けだし三月三日は仏を浴し六月六日は狗《いぬ》を浴する当時の風だったから、自分を仏と崇め、この客を狗と貶《けな》して嘲ったのだ。同書六に、侯白初めいまだ名を知られず本邑《ほんゆう》にあり、令宰初めて至り白すなわち謁す、知識にいいて曰く、白能く明府をして狗吠を作《な》さしむと、知識それはとてもならぬ事と言いて飲食を賭す、それから入りて謁すると知識門外よりこれを伺う、令宰白に何の用あって来たかと問うと、令公はいまだ知らぬがこの頃当地に盗人多いから、各家に狗を飼わせ吠えしめるが宜しいという。令曰くしからば我家にも能く吠ゆる犬を欲しいが手に入れてくれぬかと、白曰く家中新たに一群の狗ありてその声他の狗に異なりと、令それはどんな声かと尋ねると、白その声はこんなぞと※[#「口+幼」、第4水準2−3−74]々《ゆうゆう》と吠えて聞かせた。令曰く、君は好い狗の声を知らぬ。好い狗は※[#「口+幼」、第4水準2−3−74]々と吠えず号々と吠えるのだとて自らその真似をした。門外で伺う者聞きて口を掩《おお》うて笑わざるなし。白既に賭《かけ》に勝ったと知り、そんなら号々と吠えるものを尋ねて見ましょうと言って辞し出たとある。このついでに言う、犬の鳴くを本邦では鳴くとか吠えるとか言うばかりだが、支那には色々とその区別があるらしく、英語になると、バーク、イエルプ、ナール、ハウルなどと雑多な種別があって、それぞれ一語で犬が怪しんで吠えたとか、苦しんで吠えた、悲しんで吠えたと判る。どうもこんな事にかけては日本語はまずいようだ。また犬の鳴き声は時代に由って色々に聞えたと見えて、今日普通に犬の吠えるを、英語でバウワウ、仏語でブーブーまたツーツーなどいうが、十六世紀に仏国で出たベロアルド・ド・ヴェルヴィユの『上達方』などには、犬の声を今の日本と同じくワンとしおり、古エジプトではアウと呼んだ形迹《けいせき》あり(ハウトンの『古博物学概覧』三〇頁)。『狂言記拾遺』六、「犬山伏」に犬ビョウビョウと吠える。寛永十年に成った、松江重頼《まつえしげより》の『犬子集《えのこしゅう》』一に、「びやう/\と広庭にさけ犬桜」、巻十七に「びやう/\とせし与謝《よさ》の海つら」「竜燈の影におどろく犬の声」。徳川幕府の初期には、犬の鳴き声をビョウビョウと聞いたので、英語や仏語に近い。
前項に引いた、英国の『ジョー・ミラー滑稽集』にいわく、行軍中の軍曹に犬が大口開いて飛びかかると、やにわに槍先を喉《のど》に突き通して殺した。犬の主大いに怒って、それほどの腕前で槍の尻で犬を打つ事が出来なんだかと詰《なじ》ると軍曹、犬が尻を向けて飛びかかって来たならそうしたはずだと言った。またある貴婦人、下女に魚を買わしめると毎度だまされるから、一日決心して自ら買いに出かけ、魚売る女に向って魚を半値にねぎった。魚屋呆れて盗んだ物でないからそう安くは売れませぬ、しかし貴女《あなた》の手のように色を白くする法を聞かせてくださったら魚を上げましょうというと、それは何でもない事犬の皮の手袋を嵌《は》めるのだと答う。魚屋大声を揚げて啌《うそ》つきの牝犬め、わが夫は十年来離さず犬の皮のパッチを穿《は》いているが、彼処《あそこ》は肉荳※[#「くさかんむり/寇」の「攴」に代えて「攵」、第3水準1−91−20]《にくずく》のように茶色だと詈《ののし》ったそうだ。これについて憶起するは、昔大阪のどこかへ狂歌師某が宝珠の絵の額面を掲げて、「瑳《みが》いたら瑳いたゞけに光るなり、性根玉でも何の玉でも」と書くと、いつの間に誰か書き副《そ》えて、「光るかの蒟蒻玉《こんにゃくだま》ときん玉と、こんな歌よむ性根玉でも」とあったと『一話一言』で読んだ。北尾辰宣の筆ならんてふ異体の百人一首に、十種の男を品隲《ひんしつ》して白を第六等に※[#「宀/眞」、第3水準1−47−57]《お》き、リチャード・バートンはアラビア人が小唇の黒きを貴ぶ由をいった(一八九四年版『千一夜譚』注)。白人は白い物と心得た人が多いが、件《くだん》の『滑稽集』の文でやはり白くないと判る。
花咲爺の咄《はなし》は誰も知る通り、犬に情け厚かった老爺はその犬の灰で枯木に花を咲かせて重賞され、犬に辛かった親仁《おやじ》はそれを羨んで灰を君公の眼に入れて厳罰された次第を述べたのだが、近刊佐々木喜善君の『江刺《えさし》郡昔話』に出でいる灰蒔き爺の話は教科書に載ったものとは異態で、田舎びたるだけこの話の原始的のものたるを示す。その概略は、川上川下に住む二人の爺が川に筬《やな》を掛けると、上の爺の筬に小犬、下の爺のに魚多く入る。上の爺怒って小犬と魚を掏《す》り替えて還った。下の爺自分の筬に入った小犬を持ち還り成長せしむると、日々爺の道具等を負って爺に随って山へ往く。一日犬山に入って爺に教え、あっちの鹿もこっちへ来《こ》う、こっちの鹿もこっちへ来うと呼ばせると、鹿多く聚《あつ》まり来るをことごとく殺して負い帰り、爺婆とともに煮て賞翫する。所へ上の家の婆来って仔細を聞きその犬を借りて行く。翌日上の爺その犬に道具を負わせて駆って山に往き、鹿と呼ぶべきを誤ってあっちの蜂もこっちへ来う、こっちの蜂もこっちへ来うと呼ぶと、諸方より蜂飛び来って爺のキン玉を螫《さ》し、爺大いに怒って犬を殺しその屍を米の木の下に埋め帰った。下の爺|俟《ま》てども犬が帰らず。上の爺を訪ねて殺されたと知り、尋ね往きてその米の木を伐り、持ち帰って摺《す》り臼を造り、婆とともに「爺々前には金下りろ、婆々前には米下りろ」と唄うて挽《ひ》くごとに、金と米が二人の前に下りた。暴《にわ》かに富んで美衣好食するを見て上の婆羨ましくまた摺り臼を借りて爺とともに挽くに、唄の文句を忘れ「爺々前には糞下りろ、婆々前には尿下りろ」と唄うた通り不浄が落ちたので
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