上帝に誓うて爪の端も汝よりは受けられぬ。速やかに健康安全で汝が来た方へ還れと言い張った。商人やむをえず感心の余りその足に接吻し、かの人の諦めよさを讃め、「今ぞしる恨みなしとは人も犬も世を過ししぞ神のまにまに」と詠じて別れ帰った。
 南方先生|件《くだん》の名歌を訳するに苦しみ、かれこれ思い廻らす内、また見付かったから犬寺の話に再追加するは、インドのマーラッタ王サホは五十年という長い間在位して、一七四八年に※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]《そ》した。この王奇行多く、殊に犬を好む事、我が綱吉将軍に似た。サタラに近い路傍に坐った犬を刻んだ石碑立つ。これは王が、虎に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《く》われ掛かる処を救うた愛犬を埋めた場所という(バルフォールの『印度事彙』三版三巻四九〇頁)。
 犬寺の伝記に猟師秀府が臨終の際田畠を二犬に譲ったというが、欧州や西亜にはまた犬が人に遺産した譚ある。十五世紀に伊人ポッジオが金銀よく汚れた物を浄《きよ》くする一例として書いたは、ある富有な僧、極めて犬を愛し、その死するやこれを人間同様寺の墓場に葬った。僧正これを聞いてかの僧を喚起すると、僧は僧正の富まざるを知る故金を持って走り行く、僧正その咎《とが》を責むるに答えて、僧、尊者もしかの犬生前臨終ともいかに細心なりしかを知らば、人間同様の葬式したのをもっともと頷《うなず》かれるはず、就中《なかんずく》、かの犬臨終に尊者の窮乏を忘れず、遺言してこの百金を尊者に奉ったと取り出して捧げると、その金に眼がくれて一切|尤《とが》めず、犬に人間同様の墓を設くるを許したと。この話はその後ルサージュの『ジル・ブラース』などにも採用されおり、これに類した驢が人に遺産した話は十三世紀の欧州既にこれあったとアクソンの説だ(『ノーツ・エンド・キーリス』十輯十一巻五〇一頁)。
 ア氏また曰く、これと同じ話が回教国にもあってアブダラ・バン・マームードの書に出づ。それには判事が犬主を喚《よ》んで、回教の信弟子に限った葬礼を不浄極まる犬に施すは不埒千万《ふらちせんばん》だ、七睡人の犬もオザイルの驢もかつてかかる栄遇を享《う》けたと聞かぬと叱ると、犬主死犬の睿智を称揚して判事に犬が二百アスペルを遺産したと申す。判事気色打ち解けて書記を顧み、それ御覧世間の口は不実なものだ、被告も正直過ぎて人に悪《にく》まれると見えると言い、更に被告に向い汝はいまだ死犬のために祈祷せぬらしいからわれらと一緒に始めようじゃないかと言ったとある。このしまいの文句は欧州語に難訳で、祈祷を始めようと金を入れた嚢《ふくろ》を開こうとの両義を兼ね表わしいると。レーンの『近世の埃及《エジプト》人』十八章には著者カイロにあった内、夫も子も友もない女が一犬を子のごとく愛したが、犬死んで愁歎の極、その柩前《きゅうぜん》に『コラン聖典』を運ばせ唱師から泣き婆まで傭うて人間同様の葬式行列を行い、事《こと》露《あら》われて弥次《やじ》り殺されかけた由を載す。して見ると犬を不浄至極と忌む回教中にも、時たまには実際これを人同様に葬する奇人があるのだ。
 さて右述判事が七睡人の犬と言った訳は『コラン』十八章を見て判る。西暦二五〇年ローマ帝デキウス盛んにキリスト教徒を刑した時、帝に仕えた若者七人キリスト教を棄つるを厭い、エフェスス近傍の洞中に匿《かく》れ熟睡二百年に渉《わた》った。その間太陽日ごとに二度その進路を変えて洞中に光を直射せず。上帝また特に世話して、睡人を左へ右へ転ぜしめてその体の腐るを防ぎ、睡人の伴れた犬ラキムは前肢で洞口を塞《ふさ》いでこれまた沈睡したが、人も犬も睡中神智を多く得てラキムは世界無類の智犬となった。西暦四五〇年テオドシウス若帝の治世に至り、七人始めて寤《さ》めてエフェスス村に入った。たった今少し眠ったと思うたに似ず世態全く変って、キリスト教が全国に行われ、ローマ帝国は二分して東西各一君を戴く、何が何だかさっぱり分らず、王質が山を出て七世の孫に逢ったごとく、村人の答うるところ、皆七人を驚かさざるなきを見て一同更に一層驚異し、伝え伝えて帝の御聴に達し七人を召さる。七人御前に侯じて種々の奇事を奏した。就中《なかんずく》、二百年後マホメット世に出て回教を弘め大成功する由を予言したとは、回教徒がもっとも随喜する所である。かくて七人また洞中に退き死んだがその洞は今もあり。犬ラキムは当時一切の聖賢を凌駕した智犬と崇められ、人争うてこれに飲食を供したが、死後回教の楽土に安居常住すという。けだし畜生で回教の楽土に永住するを得たるものこの犬のほかに九あり。ヨナーの鯨、ソロモンの蟻、イシュメールの羊、アブラムの犢《こうし》、シェバ女王の驢、サレクの駱駝、モセスの牛、ベルキの郭公、マホメットの驢だ。キリスト教の
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