鶏を磔に懸けたのが戸上に画鶏を貼り付けるに変わったのじゃ。何のために鶏を殺したかは、後に論ずるとして、鶏に縁厚い酉歳の書き始めに昔の支那人は元日に鶏を磔《はりつけ》にしたという事を述べ置く。
 それから『荊楚歳時記』から引いた元旦の式を述べた上文、〈以て山※[#「月+操のつくり」、第3水準1−90−53]悪鬼を辟く〉の次に、〈長幼ことごとく衣冠を正し、次を以て拝賀し、椒柏《しょうはく》酒を進め、桃湯を飲み屠蘇《とそ》を進む云々、各一鶏子を進む〉とあって、註に『周処風土記』に曰く、正旦まさに生ながら鶏子一枚を呑むべし、これを錬形というとある。鶏卵を呑んで新年の身体を固めたのだ。それから『煉化篇』を案ずるにいわく、正旦鶏子赤豆七枚を呑み瘟気《おんき》を辟くとあるが、鶏卵七つも呑んでは礼廻りの途上で立ちすくみになり、二日のひめ始めが極めて待ち遠だろうから直ちに改造と出掛けたものか、『肘後方《ちゅうごほう》』には元旦および七日に、麻子、小豆、各十四枚を呑めば疾疫を消すとあって、卵は抜きとされおり、梁の武帝、厳に動物食を制してより、元旦に鶏卵を食うは全廃となったとある。
 鶏卵をめでたい物とする
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