『八犬伝』の文句にも出れば、弥陀の念仏流行して西方浄土往きの切符大投げ売りとなるまでは、キリスト教の多くの聖人大士が極楽へ直通りせず最終裁判の日を待ち合すごとく、弘法大師その他の名僧信徒、殊《こと》に畏《おそ》れ多いが至尊で落飾された方々もこの弥勒の出世をあるいは入定したり、あるいは天上霊域で待ち合され居るはずとさる高僧から承った。とにかく昔の仏徒が弥勒の出世を竢《ま》つ事、古いキリスト教徒がミルレニウムを竢ったごとく、したがって、中国や朝鮮で弥勒と僭号《せんごう》して乱を作《な》した者もありと記憶し、本邦でも弥勒十年辰の年など万歳《まんざい》が唱え祝い、余幼時「大和国がら女の呼《よば》いおとこ弥勒の世じゃわいな」てふ俚謡を聞いた。およそ仏教の諸経に、弥勒の世界と鬱単越洲《うつたんのっしゅう》を記せる、その人間全く無差別で平等で、これが西洋で説かれていたら遠くの昔に弥勒社会主義とかようのものが大いに起ったはずだが、東洋には上述の僅々小人がこれを冒して、小暴動を起したくらいに止まり、わが邦では古く帝皇以下ことごとくその経文を篤信して静かにその出世を竢たれたので、どんな結構な文も読む者の心得一つで危険思想も生ずれば、どんな異常な考えを述べた者も穏やかにこれを味わえば人心を和らげ文化を進めるに大益ありと判る。ただし『仏説観弥勒菩薩|下生経《げしょうきょう》』に、この閻浮提洲《えんぶだいしゅう》、弥勒の世となって、危険な物や穢《きたな》い物ことごとく消え失せ、人心均平、言辞一類となり、地は自然に香米を生じ、衣食一切の患苦なしとあるに、無数の宝を蔵《おさ》めた四大倉庫自然に現出すると、守蔵人、王に白《もう》す。ただ願わくば大王この宝蔵の物を以てことごとく貧窮に施せと、爾時《そのとき》大王この宝を得《え》已《おわ》ってまた省録せず、ついに財物の想なしと言えるは辻褄が合わず、どんな暮しやすい世になっても、否暮しやすければやすいほど貧乏人は絶えぬ物と見える。さて、弥勒世尊無量の人と耆闍崛山《ぎしゃくつせん》頂に登り、手ずから山峯を擘《つんざ》く。その時梵王天の香油を以て大迦葉尊者の身に灌《そそ》ぎ、大※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]稚《だいかんち》を鳴らし大法螺《おおぼら》を吹く音を聞いて、大迦葉すなわち滅尽定《めつじんじょう》より覚《さ》め、衣服を斉整して長跪
前へ 次へ
全75ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング