こそ我生き居るなれ、卿《けい》ら悪意を生ぜざれとして一女を長摩納に妻《めあ》わせ拘薩羅《くさら》国王に立てたとある(『出曜経』十一、『四分律』四三を参酌す)。従来誰も気付かぬようだが、この物語のうち長摩納に剣を擬せられ居る梵施王がその通り夢に見たところは、「垂仁紀」に天皇|狭穂姫《さほひめ》皇后の膝を枕に寝《い》ね小蛇御頸に繞《まと》うと夢みたまいし段に似、長摩納が王を殺さんとして果さなんだところは、『吉野拾遺』、宇野熊王が楠正儀《くすのきまさのり》を討ち果せなんだ話に類す。而《しか》して猴が他の諸猴の真似して偸《ぬす》んだ珠を佩び現われたところは上述赤帽の行商人の譚に近い。
ペッチグリューまた曰く、猴は人真似に止まらず、また究察力を有す。ある褐色カプシン猴はよく竈箒《かまどほうき》の柄を捻《ね》じ入れまた捻じ戻した。最初柄の孔に合わぬ端を孔に当て正しく捻じ廻したがはいらぬを見て、他の端に振り替え孔に当て正しく捻じ初めた。前二手で柄を持ち定めまた廻すは甚だ困難ゆえ、ついに一の後手(猴は足なく前後四手あり)で箒を持ち螺旋《ねじ》を合わすに並みならぬ根気を要したが、やっと合せて速やかに捻じ入れしまった。もっとも驚き入ったは、いかほど螺旋を合わし損うても二度と柄の孔に合わぬ端を孔に当てなんだのと、右から左へのみ捻じ廻した事だ。一度捻じ入れて直ちに捻じ離し、二度めは初度より易《やす》く幾度も行うた。かくて随分巧者になったところでこれをやめて他の遊びに掛った。何の必要もなき事にかくまで辛苦したは驚くほかなく、一たびやり掛けた事はいかな難件をも仕遂げるが面白いと見ゆ。これ人間のほかに見ぬところである。誰も見て居ると知らずにやったのだから讃められたくてでなく、全く為《な》さんと欲したところを為し遂げんとの望みに出たのだ。この猴またやすやすと窓隠しを開閉するを覚え楽しみ、螺旋三つまで重ねて留めた鈴の手を皆捻じ戻して解いた。この褐色カプシン猴は猴類でもっとも睿智《えいち》のものと言うべく、野生のままでは大いにその睿智と模倣力を揮うべき事物に接せず、したがってやや低能なるも、人間《にんかん》に棲み、器具に近づくに及んですこぶるこれを揮うと見ゆ。かくてこの猴夜分毛布中に臥し、人のごとく物を抛《な》げ、物を取り寄せ杖で他を打ち、鎚《つち》で栗を破り、梃《てこ》で箱の蓋《ふた》を開き、棒をへし折り、毛箒の柄の螺旋を捻じ入れ捻じ戻し、握手を交え、燭《しょく》に点火してその燃ゆるを守り、自分の頭に暖灰を撒《ま》く。けだしこの猴の脳裏に本来伏在せる睿智が人間に接して興起したので、他の諸家畜とても同様の例多し。元来猴は常に飼われず、故にその人に接近するは永続せず、他の諸畜より遥かに短し。しかるに上述のごとき諸例あるを見れば、猴類が頓智《とんち》に富みその境涯に迎合する力大なるを知るべし。しかしながら猴と人の智力に大懸隔あり、質においても量においても猴の智慧は人よりも甚だ諸家畜、就中《なかんずく》犬と象に近きを見ると。
以上ペッチグリウが挙げた諸例は科学者が審判して事実と認めたもので、その多くはロメーンズの『動物の智慧』から採り居る。この他ウォータートンの博物論文、バクランドの『博物奇談』、ジャージンの『博物文庫』巻二七、カッセル出版『猴類博物学』と『猴史』等に猴の話多い中に虚誕も少なからぬようだ。
東洋の書籍にも猴の珍談随分多いが、詰まらない嘘その半ば以上を占めるが、また西人が気付かぬ実事も少なからず載りたれば、十分|稽査《けいさ》に値いする。例せば『類聚名物考』に猴大根を食わしめてよし、またカヤの実を食すれば甚だ験《げん》あり、猴舞わしの家常に用ゆ、甚だ蟹の殻|并《なら》びに手の螫《はさみ》を嫌うなりとあるなど経験に拠ったのであろう。ボールの『印度藪榛生活』にインドの海辺で猴好んで蟹を採り食う由載せ、ビルマのシノモルグスは蟹を専食する猴だ。熊野の勝浦などで、以前は猴が磯に群集し蟹を採り食うに石でその殻を打ち破った。しばしば螫で鉗《はさ》まれ叫喚の声耳に喧《かまびす》しかったと古老から聞いた。しかるに予幼時|直《すぐ》隣りの家にお徳という牝猴あり。紙に蟹を包み与えると饅頭《まんじゅう》と思い戴《いただ》き、開き食わんとして蟹出づるに仰天し騒ぎ逃げ廻る事夥し。その後誰が紙包みの饅頭を遣わしても必ず耳に近づけ、蟹の足音せぬか聞き定めた後初めて開いた。『醒睡笑《せいすいしょう》』に、海辺の者山家に聟を持ち、蛸《たこ》と辛螺《にし》と蛤《はまぐり》を贈りしを、山賤《やまがつ》輩何物と知らず村僧に問うと、竜王の陽物、鬼の拳、手頃の礫じゃと教えたとある通り、件《くだん》の牝猴幼くて捕われ蟹を見た事なき故怖れたのだ。現に予の家に飼う牝鶏は、始め蚯蚓《みみず》を与うるも
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