書斎に対して住みいた芸妓置屋の女将が愛翫したカジカ蛙が合掌して死んだは信心の厚い至りと喋々《ちょうちょう》して、茶碗の水ででも沾《うるお》したものか、川穀(ズズダマ)大の涙を落し坊主に読経させて厚く葬ったと聞いた。善男信士輩、成湯《せいとう》の徳は禽獣に及びこの女将の仁は蛙を霑《うる》おすと評判で大挙して弔いに往ったは事実一抔|啖《くわ》されたので、予が多く飼うカジカ蛙が水に半ば泛《うか》んで死ぬるを見るに皆必ず手を合せて居る。これはこの蛙の体格と死に際の動作がしからしむるので念仏でも信心でもない。チャーレス・ニウフェルドの『カリーファの一囚人』(一八九九年板)に、著者が獄中にあって頭上で夥しく砲丸破裂の憂目《うきめ》を見た実験談を述べて、その時獄中の人一斉に大腹痛大下痢を催したと書いた。われわれ幼時厳しく叱《しか》られ驚愕《きょうがく》措《お》く所を知らぬ時も全くその通りだった。因って想うに猴も人も筋肉の構造上から鉄砲など向けらるると自ずと如上《じょじょう》の振る舞いをするので、最初は驚怖が合掌を起し、追々恐怖が畏敬に移り変って合掌する事となったので、身持ちの牝猴も女も、恐怖極まる時は思わず識らず指が腹に向くので、さもなき牡猴や男にも幾分その傾向を具え居るので、時として孕婦の真似するよう見えるのでなかろうか。
 ペッチグリウ博士続けていわく、予かつて高等哺乳動物の心室と心耳の動作を精測したき事あって一疋の猴の躯を嚢《ふくろ》に入れてひっ掻かるるを防ぎ、これにクロロホルムを施すに猴あたかも予の目的を洞察せるごとく、悲しみ気遣いながら抵抗せず、予の為《な》す任《まま》に順《したが》いしは転《うた》た予をして惻隠《そくいん》の情に堪えざらしめた。その行い小児に強いられてやむをえず麻薬を施さしむるに異ならず、爾来どんな事あるも予は再び猴に麻薬を強うるを欲せず。またある時ロンドンの動物園で飼いいた黒猩(チンパンジー)が殊《こと》のほか人に近い挙止を現ずるを目撃した。それは若い牝だったが、至って心やすい番人よりその大好物なる米と炙肉汁の混ぜ物を受け徐《しず》かに吸いおわり、右手指でその入れ物ブリキ缶《かん》の底に残った米を拾い食うた後、その缶を持って遊ぼうとするを番人たって戻せと命じた。そこで黒猩|暴《にわ》かにすね出し、空缶を番人に投げ付け、牀《とこ》に飛び上り、毛布で全身を隠す、その体《てい》気まま育ちの小児に異ならなんだ。ロメーンズの記に、牝猩々が食後空缶を倒《さかさま》に頭に冠《かぶ》り観客が見て笑うを楽しみとした事あり。サヴェージ博士は黒猩時に遊楽のみのために群集し、棒で板を打って音を立つ事ありというた。猴どもが動物園内で軽業を面白|可笑《おか》しく楽しむは皆人の知るところで、機嫌好く遊ぶかと見ればたちまちムキになって相闘い、また毎度人間同様の悪戯をなす。アンドリウ・スミス男喜望峰で見たは、一士官しばしばある狗頭猴を悩ます、ある日曜日その士盛装して来るを見、土穴に水を注ぎ泥となし、俄《にわか》に投げ掛けてその服を汚し傍人を大笑せしめ、爾後その士を見るごとに大得色を現じた由。
 猴は極めて奇物を好む。鏡底に自分の影映るを見て他の猴と心得、急にその裏を覗き見る。後、その真にあらざるを知り大いに誑《たぶら》かされしを怒る。また弁別力に富む。レンゲルいわく、一度刃物で怪我《けが》した猴は二度とこれに触《さわ》らず、あるいは仔細に注意してこれを執る。砂糖と蜂を一緒に包んだのを受けて蜂に螫《さ》されたら、その後かかる包みを開く前に必ず耳に近付けて蜂の有無を聞き分ける。一度ゆで卵を取り落して壊《こわ》した後は、卵を得るごとに堅い物で打ち欠き指もてその殻を剥《は》ぐ。また機巧あり、ベルトが睹《み》た尾長猴はいかにこんがらがった鎖をも手迅《てばや》く解き戻し、あるいは旨く鞦韆《ぶらんこ》を御して遠い物を手に取り、また己れを愛撫するに乗じてその持ち物を掏《す》った。キュヴィエーが飼った猩々は椅子を持ち歩いてその上に立ち、思うままに懸け金をはずした。レンゲルはある猴は梃《てこ》の[#「梃《てこ》の」は底本では「挺《てこ》の」]用を心得て長持《ながもち》の蓋《ふた》を棒でこじあけたというた。ヘーズン一猴を飼いしに、その籠《かご》の上に垂れた木の枝に上らんと望めど、籠の戸の上端に攀《よ》じ登って始めて達し得。しかるにこの戸を開けばたちまち自ずから閉ずる製《つくり》ゆえ何ともならず。その猴取って置きの智慧を揮《ふる》い、戸を開いてその上端に厚き毛氈を打ち掛け、戸の返り閉づるを拒《ふせ》ぎ、やすやすと目的を遂げたそうだ。シップは喜望峰狗頭猴、下より来る敵を石などを集め抛下《ほうか》して防ぐといい、ダムピエート・ウェーファーは猴が石で牡蠣《かき》を叩き開くを
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