氏が喫烟に立った間に氏の椅子に座し膝に書を載せ沈思の体までは善《よ》かったが、一枚一枚|捲《めく》り裂きて半巻を無にした所へ氏が帰った。また氏がちょっと立つごとに跡へ坐って烟管《キセル》を口にし、氏帰れば至って慎んで返却したは極めて可笑《おか》しかったとある。またいわくすこぶる信ずべき人から聞いたは、猴|曳《ひ》きが寺の鐘を聴いて如法に身を浄めに行くとて、平生教えある狗頭猴に煮掛けた肉の世話を委ね置くと、初めは火を弄《もてあそ》びながら番したれど、鶏肉熟せるを見て少しずつ盗み食いついに平らげてしまい、今更骨と汁のほかに一物なきを知って狼狽《ろうばい》の末呻吟する、たまたま、鳶《とび》が多く空に舞うを見て自分の尻赤く鶏肉に擬《まが》うに気付き、身を灰塵《かいじん》中に転《ころ》ばして白くし、越後獅子《えちごじし》様に逆立ちこれを久しゅうせるを鳶が望んで灰塚の頂に生肉二塊ありと誤認し、二、三羽下り撃つところを取って羽生えたまま煮え沸く鍋《なべ》に押し込むを、向いの楼の上で喫烟しながら始終見届けた人ありと。『嬉遊笑覧』に『犬筑波集《いぬつくばしゅう》』猿の尻木枯ししらぬ紅葉かな、『尤《もっとも》の草紙』赤き物猴の尻、『犬子集』昔々《むかしむかし》時雨《しぐれ》や染めし猿の尻、また丹前能日高川の故事を物語るところになんぼう畏《おそ》ろしき物語にて候、猿が尻は真赤なと語りぬとあり。これら皆幼稚の者の昔々を語る趣なり。猿は赤いといわんためまた猿と蟹の古話もあればなり、赤いとはまづかくと言うの訛りたるなり。まづかくは真如これなり、それを丹心丹誠の丹の意にまっかいといえるは偽りなき事なるを、後にその詞を戯れて猿の尻など言い添えて、ついに真ならぬようの事となって今はまっかな啌《うそ》という、これは疑いもなく明白なるをまっかというなれど、実は移りて意の表裏したるなるべしと見ゆ。これで予も猿の尻は真赤いな。[#地から2字上げ](大正九年二月、『太陽』二六ノ二)
(二) 性質
概言中に述べた平猴に似た物が明の黄省曾の『西洋朝貢典録』中と『淵鑑類函』二三四に記載さる。その文異同ある故|両《ふた》つながら参酌して書くと、〈阿魯《あろ》国一名唖魯、西南の海中にあり、その国南は大山、北は大海、西は蘇門荅剌《スマトラ》国界、国語婚喪等の事|爪哇《ジャワ》と相同じ、山に飛虎を出す、その状猫のごとく、灰色にして肉翅、蝙蝠のごとく、能く走り能く飛ぶ、これを獲ればすなわち死す〉。スマトラの東にあるなり、西南でなくて東南海中にある蘭領アル島にほかならじ。いわゆる飛虎はアル島に産するベタウルスの一種らしい。これはカンガルーなどと同じく、袋獣類の物で平猴(コルゴ)と縁がない。
それから前引の「波の音聞かずがための山籠り苦は色かへて松風の声」てふ歌は、熊野の神さえ海辺で波、山中で松風の音が耳に障る。いわんや人間万事思うままに行くものかという訓《おし》えの神詠とかで、今も紀州の人は不運な目に逢うごとにこれを引いて諦めるが、熊野猿ちゅう諺《ことわざ》通りよほどまずい神詠だ。さりとて随分名高かった証拠は近松門左の戯曲『薩摩歌』中巻お蘭比丘尼の詞《ことば》に「あのおしゃんす事わいの、苦は色替ゆる松風通り、風の吹くように、身にも染まぬ一時恋」。半二と加作の『伊賀越道中双六《いがごえどうちゅうすごろく》』岡崎の段の初めに「世の中の、苦は色かゆる松風の、音も淋しき冬空や」などある。全体この神詠なるもの何時頃《いつごろ》から文献に見え出したのか、読者諸君の教えを乞う。
『水経注《すいけいちゅう》』巻三三に広渓峡に手長猿多きもその北岸には決してこれを産せぬとある。何のへんてつもない記事と看過しいたところ、たまたま『大英百科全書』巻二二フォルツ博士の実験談を引いて、スマトラ島の諸地にシャマンとウォーウォーと二種の手長猴雑居し、パレンバン地方でも山地では雑居す。しかるにこの地方にあるレマタン川に限り、彼らが容易に飛び越え得るほど狭き上流までも西岸にシャマン、東岸にウォーウォー棲んで相《あい》雑《まじ》わる事なきは希代だ。前者は一声、後者は二声ずつ鳴くからこれを捕え見ずともこの界別はよく判るというを読んで、魏帝が長江の南北を限れるを認め嘆ぜしを思い出し、『水経注』の説もしかと事実に基づいたものと知った。
フンボルトの『回帰線内亜米利加旅行自談』に、所により鰐や鮫が人を犯すと犯さざるの異なる由を述べ、猴も同様でオリノコやアマゾン河辺のインデアン人は、同一種の猴ながらある島に住むはよく人に懐《なつ》き馴れるが、その近所の大陸に住む奴は捕えらるるや否や、甚だしく怖れまた嗔《いか》ってたちまち死するを熟知する故、猿取りに無駄骨を折らぬ。どうも地勢が違うばかりでかように性質が異なると説き去
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