れぬ波間よりてふ句で、もと海に棲むとしたと知れる。この謡《うたい》に猩々が霊泉を酒肆《しゅし》の孝子に授けた由を作ってより、猩々は日本で無性に目出たがられ、桜井秀君は『蔭涼軒日録《いんりょうけんにちろく》』に、延徳三年泉堺の富家へ猩々に化けて入り込み財宝を取り尽した夜盗の記事を見出された。かかる詐欺が行わるべしとは今の人に受け取れぬが、『義残後覚《ぎざんこうかく》』七、太郎次てふ大力の男が鬼面を冒《かぶ》り、鳥羽の作り道で行客を脅かし追剥《おいはぎ》するを、松重岩之丞が斫《き》り露《あら》わす条、『石田軍記』三、加賀野江弥八が平らげた伊吹の山賊鬼装して近郷を却《おびや》かした話などを参ずるに、迷信強い世にはあり得べき事だ。若狭《わかさ》に猩々洞あり。能登《のと》の雲津村数千軒の津なりしに、猩々上陸遊行するを殺した報いの津浪で全滅したとか(『若狭郡県志』二、『能登名跡志』坤巻)、その近村とどの宮は海よりトド上る故、トド浜とて除きあり、渡唐の言い謬《あやま》りかとある。トドは海狗の一種で、海狗が人に化ける譚北欧に多い(ケートレーの『精魅誌』)。惟《おも》うに北陸の猩々は海狗を誤認したのだろう。
 家康公が行水《ぎょうずい》役の下女に産ませた上総介《かずさのかみ》忠輝は有名な暴君だったが、その領地に無類の豪飲今猩々庄左衛門あり、忠輝海に漁して魚多く獲た余興に、臣民に酒を強《し》いるに、この漁夫三、四斗飲んで酔わず、城へ伴い還り飲ましむるに六斗まで飲んで睡《ねむ》る。忠輝始終を見届け、かの小男不審とてその腹を剖《さ》くに一滴もなし。しかるにその両脇下に三寸ばかりの小瓶《こがめ》一つずつあり。砕かんとすれども鉄石ごとくで破れず、その口から三斗ずつ彼が飲んだ六斗の酒風味変らず出た。忠輝悦んで日本無双の重宝猩々瓶と名づけ身を放さず、この殿酒を好み、この瓶に酒を詰め、五日十日海川池に入りびたれど酒不足せず、今猩々の屍を懇《ねんごろ》に葬り弔い、親属へ金銀米を賜わった由(『古今武家盛衰記』一九)。これは『斉東野語《せいとうやご》』に出た野婆の腰間を剖いて印を得たというのと、大瓶猩々の謡に「あまたの猩々大瓶に上り、泉の口を取るとぞみえしが、涌《わ》き上り、涌き流れ、汲《く》めども汲めども尽きせぬ泉」とあるを取り合せて造った譚らしい。
『野語』の文は〈野婆は南丹州に出《い》づ、黄髪|椎髻
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