前田|利常《としつね》の幼名お猿などあるは上世これを族霊《トーテム》とする家族が多かった遺風であろう。『のせざる草紙』に、丹波の山中に年をへし猿あり、その名を増尾の権《ごん》の頭《かみ》と申しける。今もこの辺で猴神の祭日に農民群集するは、サルマサルとて作物が増殖する賽礼《さいれい》という。得手吉とは男勢の綽号《あだな》だが猴よくこれを露出するからの名らしく、「神代巻」に猿田彦の鼻長さ七|咫《し》、『参宮名所図会』に猿丸太夫は道鏡の事と見え、中国で猴《こう》を狙《そ》というも且は男相の象字といえば(『和漢三才図会』十二)、やはりかかる本義と見ゆ。ある博徒いわく、得手吉は得而吉で延喜《えんぎ》がよい、括《くく》り猿《ざる》というから毎々縛らるるを忌んで猴をわれらは嫌うと。
唐の黄巣《こうそう》が乱を為《な》し金陵を攻めんとした時、弁士往き向うて王の名は巣《そう》、それが金に入ると※[#「金+樔のつくり」、第4水準2−91−32]となると威《おど》したのですなわち引き去った(『焦氏筆乗』続八)とあると同日の談だ。
昔狂月坊に汝の歌は拙《まず》いというと、「狂月に毛のむく/\と生《はえ》よかしさる歌よみと人に知られん」。その相似たるより毳々《むくむく》と聞けばたちまち猴を聯想するので、支那で女根を※[#「けものへん+胡」、29−9]※[#「けものへん+孫」、29−9]《こそ》といい(『笑林広記』三)、京阪でこれを猿猴と呼び、予米国で解剖学を学んだ際、大学生どもこれをモンキーと称えいたなど、『松屋《まつのや》筆記』にくぼの名てふ催馬楽《さいばら》のケフクてふ詞を説きたると攷《かんが》え合せて、かかる聯想は何処《どこ》にも自然に発生し、決して相伝えたるにあらずと判る。ただし『甲子夜話』続十七に、舅《しゅうと》の所へ聟見舞に来り、近頃|疎濶《そかつ》の由をいいかれこれの話に及ぶ。舅この敷物は北国より到来せし熊皮にて候といえば、聟|撫《な》で見てさてさて所柄《ところがら》とてよき御皮なり、さて思い出しました、妻も宜《よろ》しく御言伝《おことづて》申し上げますとあるは、熊皮は毳々たらぬがその色を以て聯想したのだ。仏経や南欧の文章に美人を叙するとて髪はもちろんその他の毛の色状を細説せるを、毛黒からぬ北欧人が読んで何の感興を生ぜぬは、自分の色状と全く違うからで、黒熊皮を見ても妻を想起
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