、雉等が苅り詰められて最後の一株まで残り匿《かく》るるが、それも苅られて来り出づるを、原始人が見て禾の精が、兎、雉等に化けて逃げ出すと認め、かかる処へ知らぬ人が来会す場合には、穀精が人に現じたと考え、さてこそ穀精あるいは人、あるいは諸動物の形して現《あら》わるてふ信念が起ったのだと。この説に対して予全く異論なきにあらざれど、今しばらくこれに従うて羊を穀精とした遺風の数例を挙げんに、スイスの一部では最後の稈《わら》一|攫《つか》みを苅り取った人を麦の山羊と名付け、山羊然とその頸に鈴を付け、行列して伴れ行き酒で盛り潰《つぶ》す。スコットランドのスカイ島では、以前自分の麦を苅り終った百姓が、麦穂一束を、隣りのまだ苅り終らぬ百姓へ送り、その百姓苅り終る時またその隣りへその束を贈る。かくて村中ことごとく苅り終るとその一束が百姓中を廻りおわる。この一束を跛山羊《ちんばやぎ》と名づく。穀精が最後まで匿れいた一束を切られて一脚傷つけたてふ意らしい。仏国グレノーブル辺では麦苅り終る前に、花とリボンで飾った山羊を畑に放ち、苅り手競うてこれを捕う。誰かがこれを捕え得たら主婦これを執えおり、主公これを刎首《くびは》ね、その肉で苅入れ祝いの馳走をする。また肉の一片を※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]《しおづけ》して次年の苅入れ時まで保存し、その節他の一羊を殺して前年の※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]肉を食うた跡へ入れ替える(フレザーの『金椏篇《ゴルズン・バウ》』一板二巻三章)。これらいずれも穀精山羊形で現わると信じた遺俗で、所により穀精と見立てた獣を春になって殺し、その血や骨を穀種と混じて豊穣を祈るあり、穀を連枷《からさお》で※[#「てへん+二点しんにょうの過」、第3水準1−84−93]《はた》いてしまうまで穀精納屋に匿れいるとか、仲冬百姓が新年の農事に取り掛からんと思う際、穀精再び現わるとか、山羊と猪の差こそあれ、わが邦の玄猪神に髣髴《ほうふつ》たる穀精の信念が今も欧州に存しいるので、かかる獣形の穀精が進んでデメテルごとき人形の農神となった事、狐は老翁形の稲荷大明神となったに同じ。
[#地から2字上げ](大正八年一月、『太陽』二五ノ一)
底本:「十二支考(下)」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
1951(昭和26)年
初出:「太陽 二五ノ一」
1919(大正8)年1月
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2009年3月31日作成
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