前《みさき》の東北海中に七島あり阿波良岐《あはらき》島という、また毛无《けなし》島とてまるで巌で草木なき島あり、合せて八島|相《あい》聯《つら》なる、『内宮年中行事記』に、六月十五日|贄海《にえうみ》神事の時舟子の唄う歌の中に「阿波良岐や、島は七島と申せども、毛无《けなし》かてては八島なりけり」と載す。『続々群書類従』一に収めた、『内宮氏経日次記』には「阿婆羅気《あばらけ》や、島は七島と申せども、毛無からには八島なりエイヤ/\」に作る。これだけでは不安心だが、アバラケは亭を阿婆良也《あばらや》と訓《よ》むごとく荒れ寥《すさ》んだ義で毛なしと近く、ほとんど相通ずる意味の詞であろう。かくて不毛をアバラケ、それよりカハラケと転《うつ》して呼ぶに及んだでなかろうか。『日次記』に右の歌宝徳三年頃すでにあったよう見えれば、愚考が万一|中《あた》ると、不毛をかく唱うるは足利義政の世既にあった事となるはずだが、大分怪しいて。
支那の名馬は、周|穆王《ぼくおう》の八駿、その名は赤驥、盗驪、白義、踰輪、山子、渠黄、華※[#「馬+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、358−5]、緑耳で、漢文帝の九逸は、浮雲、赤電、絶群、逸驃、紫燕、緑※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]、竜子、※[#「馬+隣のつくり」、第3水準1−94−19]駒、絶塵だ、前者は毛色、後者は動作を主に名の因とした。その他項羽の騅《すい》、呂布《りょふ》の赤兎、張飛の玉追、遠※[#「豈+頁」、第3水準1−94−1]の飛燕、梁武帝の照殿玉獅子等、なお多かるべし。本邦には「垂仁《すいにん》紀」に足往《あゆき》てふ名の犬見ゆるに、名馬に特号あるを見ず。遥か後に藤原広嗣が宰府で一声に七度嘶くを聞き尋ね、高直《たかね》で買い取った馬は初め四の杭《くい》に登り立ち、数日後には四足を縮めて一の杭に立ち、よく主人を乗せ走りて毎日午前は筑紫午後は都で勤務せしめ、時の間に千五百里通うたという(『松浦廟宮本縁起』と『古今著聞集』第三十)。それほどの駿馬だにただ竜馬の噂《うわさ》されしのみで、別段その号は伝わらず。惟《おも》うに小児が飼犬を単に白とか赤とか呼ぶごとく、その頃まで天斑駒《あまのぶちごま》、甲斐《かい》の黒駒など生処と毛色もて呼ぶに過ぎなかったろう。その後とても信州井上より後白河院へ奉りし馬を井上黒、武州河越より平知盛《
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