しめんとする迅速の義と三あり、今世俗に馬の守護神として尊崇せられ、馬の追福のためにその石像を路傍に建つる由言い居る。けだし仏教つとに三獣の喩あり、兎や鹿は水を渡るに利己一辺だが、馬は人を乗せて自他ともに渡る。そのごとく声聞《しょうもん》や縁覚《えんがく》よりは菩薩|迥《はる》かに功徳殊勝なりとし、観音救世の績殊に著しいから、前述五百商人を救うた天馬などをその化身とし、追々馬は皆観音の眷属としたのじゃ。『天正日記』に奉行青山常陸介の衆の馬、浅草観音寺内に乾《ほ》した糒《ほしいい》を踏み散らし、寺家輩と争論となる、常陸衆、観音の眷属たる馬が観音の僧衆の料を踏んだればとて、咎め立てなるまじと遣り込め閉口せしめたと出づ。欧州と等しくアジアにも馬を穀精とする例、インドのゴンド人クル人は、穀精として馬神コド・ペンを拝す。初午《はつうま》の日、穀精の狐神をわが国で祭る(『考古学雑誌』六巻二号拙文「荼吉尼天《だきにてん》」参照)。維新前はこの日観音をも祀ったのが多い。スウェン・ヘジン説にチベットの聖山カイラスへ午歳《うまどし》ごとに参詣群集を極むとあるも、馬と観音の関係からだろう(一九〇九年版『トランス・ヒマラヤ』巻二、一九〇頁)。
さて北アジアの諸民族に尊ばるるシャーマンは、やや奥州の馬形の巫神オシラサマに似た馬頭杖を用いて法を行い、霊馬に乗って冥界に馳せ往き、神託を聴き返ると信ぜられ、わが邦にも巫道に馬像を用いたらしく、『烏鷺合戦物語』に「寄人は今ぞ寄せ来る長浜や、葦毛の駒に手綱ゆりかけ」てふ歌あり、支那人も本邦の禅林でも紙馬を焼き、インドのビル人は山頂の石塚に馬の小土偶を献ずれば、死者の霊その像の後の小孔より入りて楽土に騎《か》け往き馬を土地神に与え、その軍馬を増すと信ず。これらいずれも以前馬を殺して死人に殉葬したり、神に牲供した遺風だ。
専ら野馬を猟りて食った時代は措《さしお》き、耕稼乗駕馬を労する事多き人が、その上にもこれを殺し肉を食い皮を用いなどするは、創持つ足の快からぬところから出で来った馬鬼の話が諸国に多い(『山島民譚』一参照)。それがまたことごとく人鬼に擬《まね》て作られ居る。例せばインドのギルハ鬼は水に住み人形無頭で、アーヴィングの『コロンブス伝』に頭なき幽霊騎馬した記事あり。以前四月二十四日の夜、福井市内に柴田勢の亡魂の行列あり、その大将騎馬にて首がなかっ
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