の肝を取ってやった。のち趙が※[#「櫂のつくり」、第3水準1−90−32]《てき》を攻めた時、かの者の一党皆先登して勝軍《かちいくさ》した。逸詩に、君子に君たればすなわち〈正しく以てその徳を行う、賤人君たらば、すなわち寛にして以てその力を尽す〉という事じゃと、『呂覧』愛士篇に出《い》づ。本邦では普通に馬牛を食うを古来忌んだようだが、『古語拾遺』に白猪、白馬、白鶏を御歳《みとせ》すなわち収穫の神に献《たてまつ》ってその怒りを解く事あり。貴州の紅崖山の深洞中より時に銅鼓の声聞ゆ、諸葛亮ここに兵を駐《とど》めたといい、夷人祭祀ごとに烏牛《くろうし》、白馬を用うれば歳《とし》稔《みの》る(『大清一統志』三三一)てふ支那説に近い。あるいは上世日本でも地方と部族により、馬肉を食いもし神にも献じたものか。琉球では維新前も牛馬猫の肉を魚店《うおたな》で売り、婦女殊に馬肉を好み焼き食うたが、本土の人これを見れば大いに慙じたと(『中陵漫録』八)。蒙古人古来馬肉を食い、殊にその腐肉を嗜《この》み、また馬乳で酒を作った事は支那人のほかにルブルキスやマルコ・ポロやプルシャワルスキ等の紀行に詳《くわ》し。
 ブラウンの『俗説弁惑《プセウドドキシア・エピデミカ》』三巻二十五章にいわく、プリニウスとガレヌスは痛く馬肉を貶《けな》しまた馬血を大毒と言ったが、韃靼人他に勝れて馬肉を食い、馬血をも飲むでないか、それは北方寒地の人体にのみ無害故しかりと言わんか。ヘロドトスが言った通り、ペルシアは暖国だがその人誕生祝いに馬肉を饗し、また全《まる》で馬、驢、駱駝を烹《に》用いて、ギリシア人が、かほどの美饌を知らぬを愍《あわれ》んだから、どの国で馬肉を食ったって構わぬはずだと。メンツェルの『独逸史《ゲシヒテ・デル・ドイチェン》』巻の一にゲルマンの僧は、馬を牲《いけにえ》にしその肉を食ったから、馬肉|喫《く》わぬ者をキリスト教、これを食うはキ教外の者と識別した、古スウェーデンでもキリスト教を奉ずる王に強いて馬肉を食わせ、その脱教の徴《しるし》としたという。四十七、八年前パリ籠城《ろうじょう》の輩多く馬を屠《ほふ》ったが、白馬の味|太《いた》く劣る故殺さず、それより久しい間パリに白馬が多かった(『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』十一輯七巻百九頁)。マルコ・ポロ曰く、元世祖純白の馬一万匹あり、その牝の乳を帝
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