害と訳し置いたがこれは経文に拠って見毒と極《き》めるが良かろう。
[#ここで字下げ終わり]
ここにいえる、邪視の字が出おる『普賢行願品』は、唐の徳宗の貞元中、醴泉寺《れいせんじ》の僧般若が訳し、悪眼の字が出おる『増一阿含』は、東晋時代に苻堅に礼接された曇摩難提が訳した。故に両《ふたつ》ながら昨今始まった語でなく、悪眼は今よりおよそ千五百四十年前、邪視は今よりおよそ千百三十年前既にあったと知らる(『高僧伝』巻一、『宋高僧伝』巻三)。而《しか》して石田君が『晋書』から引かれた衛※[#「王+介」、第3水準1−87−85]《えいかい》の死に様は、『南方随筆』に載せた裏辻公風と同じくいわゆる見毒(ナザール)に中《あた》ったらしい。小児を打ち続けて発病せしむると、撫《な》で過ぎて疳《かん》を起させると差《ちが》うほど邪視と差う。
また石田君はデンニス氏の書から、支那で妊婦やその夫は、胎児とともに四眼をもつ者として、邪視の能力者として、一般から嫌忌さるる由を引かれた。『琅邪代酔編』巻二に、後漢の時、季冬に臘《ろう》に先だつ一日大いに儺《おにやらい》す、これを逐疫という、云々、方相氏は黄金の四目あ
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