ンとは古老の説に、非道交会を昔の芝居者などが数うるに、一トン取る二トン取るといったそうだから、南米にあるてふ男色蛇《ソドマイト・スネーク》と同義の名らしい。果してそんな水蛇が日本にあるなら、国史に見えた※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]《みづち》、今も里俗に伝うる河童は、本《もと》かようの水蛇から生じた迷信だろうという意を述べ置いたところ、旅順要港部司令官黒井将軍より来示に、自分は両国の橋の上に御大名が御一人|臥《のさ》って御座ったてふ古い古い大津絵節《おおつえぶし》に、着たる着物は米沢でとある上杉家中に生まれた者で出羽の事を熟《よく》知るが、かの地にトウシ蛇という、小形で体細く薄黒く川を游ぐものをしばしば見た。而《しか》して自分らの水游ぎを戒むるとて、母が毎《いつ》も通し蛇が水游ぐ児の肛門より入りてその腸を食い、前歯を欠いて口より出ると言うを聞き怖《お》じた。一度もその事実を見聞した事なきも、水死の尸は肛門開くもの故、水蛇に掘られたであろうと思うて、言い出したものか。トウシ蛇とは肛門より腹中へ通し入るの義らしく、トウシをトシと略書したるを、かの書にトンと誤写せるにあらずやと、とにかくかようの水蛇と話が、羽州に存するは事実だとあった。これで古史の※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]や、今俗伝うる河童は、一種の水蛇より出たろうてふ拙見が、まず中《あた》ったというものだ。全体水蛇は尾が海蛇のように扁《ひら》たからず、また海蛇は陸で運動し得ず、皮を替えるに蜥蜴同然片々に裂け落ちるに、水蛇は陸にも上り行《ある》き全然《まるきり》皮を脱ぐ。もっともその鱗や眼や鼻孔等が、陸生の蛇と異なれど、殺した上でなければ確《しか》と判らず、したがって『本草啓蒙』『和漢三才図会』など、本邦にも水蛇ありと記せど、尋常陸生の蛇がたまたま水に入ったのか、水面を游ぐ蛇状の魚を見誤ったのか知りがたかったところ、黒井中将に教えられて、浅瀬を渡る水蛇が少なくとも本邦の北部に産すと知り得たるは、厚く御礼を申し上ぐるところである。
 海蛇の牙に大毒あるが、水蛇は人を咬《か》むも無害と、『大英百科全書』十一版二十五巻に見えるが、十二巻にはアフリカに大毒の水蛇ありと載せ居る。かほど正確を以て聞えた宝典も、巻|累《かさ》なればかかる記事の矛盾もありて読者を迷わす。終始一貫の説を述べ論を著わすは難くもあるかなだ。まして本篇などは、多用の片手間に忙ぎ書くもの故、多少前後|揃《そろ》わぬ処があってもかれこれ言うなかれと、蛇足と思えど述べて置く。琉球の永良部鰻《えらぶうなぎ》など、食用さるる海蛇あるは人も知るが、南アフリカのズーガ河に棲む水蛇も、バエイエ人が賞翫する由(リヴィングストンの『宣教紀行《ミショナリ・トラヴェルス》』三章)このついでに受け売りす。ケープ、カフィル人は魚を蛇に似るとて啖《く》わずと(バートンの『東亜非利加初行記《ファースト・フートステプス・イン・イースト・アフリカ》』第五章)。
 蛇足の喩《たと》えは『戦国策』に見ゆ。昭陽楚の将として魏を伐《う》ち更に斉を攻めた時、弁士|陳軫《ちんしん》斉を救うためこの喩えを説き、昭陽に軍《いくさ》を罷《や》めしめた。一盃の酒を数人飲まんとすれど、頭割りでは飲むほどもなく一人で飲むとあり余るから、申し合せて蛇を地に画き早く成った者一人が飲むと定め、さて最も早く蛇を画いた者が、その盃を執りながら、この蛇の足をも画いてみせようと画き掛くる内、他の一人その盃を奪い取り、蛇は足なきに定まったるに、無用の事をするから己《おれ》が飲むとて飲んでしまい、足を画き添えようとした者その酒を亡《うしの》うた。公も楚王に頼まれて魏を破ったら役目は済んだ。この上頼まれもせぬ斉国を攻むるは、真に蛇足を書き添える訳だと説いたのだ。ムショーの『艶話事彙《ジクショネール・ド・ラムール》』にも、処女が男子に逢《あ》い見《まみ》えし事の有無は、大空を鳥が飛び、岩面を蛇が這った足跡を見定むるよりも難いと、ある名医が嘆じたと載す。この通りないに相場の定まった蛇の足とは知りながら、既に走り行《ある》く以上は、何処かに隠れた足があるのであろうと疑う人随分多く、そんな事があるものかと嘲る人も、蛇がどうして走り行くかを弁じ得ぬがちだ。誠に愍然な次第故、自分も知らぬながら、学者の説を受け売りしよう。
 そもそも蛇ほど普通人に多く誤解され居るものは少ない。例せば誰も蛇は常に沾《ぬ》れ粘ったものと信ずるが、これその鱗が強く光るからで、実際そんなに沾れ粘るなら沙塵が着き、重《おも》りて疾く走り得ぬはずでないか。その足に関する謬見は一層夥しく、何でも足なければ歩けぬと極《き》めて掛かり、何がな足あるにしてしまわんと種々の附会を成した。支那の『宣室志』にい
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