には、蝮酒は能《よ》く性欲を強くするとある。『本草綱目』に、醇《よき》酒《さけ》一斗に蝮一疋活きたまま入れて封じ、馬が溺《いばり》する処に埋め、一年経て開けば酒は一升ほどに減り、味なお存し蝮は消え失せいる。これを飲めば癩病を癒すとある。蝮は興奮の薬力ある物か。予が知る騎手など競馬に先だち、乾した蝮の粉を馬に餌《えば》うと、甚だ勇み出すといった。先日の新紙に近年蛇を薬用のため捕うる事大流行で、鯡《にしん》を焼けば蛇|聚《つど》い来るとあったが虚実を知らぬ。
 一六六五年再版ド・ロシュフォーの『西印度諸島博物世態誌《イストア・ナチュラル・エ・モラル・デ・イール・アンチュ》』一四二頁に、土人の家に蛇多く棲むも鼠を除くの効著しき故殺さずと見え、『大英百科全書』四に両半球に多種あるボア族の大蛇いずれも温良《おとなし》く、有名なボア・コンストリクトルなど、人と同棲して鼠害を除くとある。その鼠害というはなかなか日本のような事でなく、予かつて虫類を多く集め来り、針もて展翅板《てんしばん》へ留め居る眼前へ鼠群襲い来り、予が一疋の蝶に針さす間に先様から鼠に粉※[#「くさかんむり/韲」、第4水準2−87−23]《ふんさい》され、一方へ追い廻る間に他方より侵来して何ともなる事でなかった。かかるところにあっては蛇の姿を嫌がるどころにあらず、諸邦でこれを家の祖霊、耕地の護神とせるは尤《もっとも》千万《せんばん》と悟った。さる功績あらばこそ堅固なキリスト信教国の随一たるスウェーデンですら、十六世紀まで蛇を家の神と祀《まつ》った。「蛇の変化」の項で記したホイダーの蛇神大崇拝のごとき、この国に蛇ほど尊きものなきごとくしたは不思議に堪えぬ。しかるにその実状を視《み》た公平な論者は、古く既にこの神と冊《かしず》かるる蛇が毒蛇どもを殺し、田畑に害ある諸動物を除く偉功を認めかく敬わるるは当然だといった(アストレイ、三の三七頁)。わが国の農民が、蛇家に入るをミが入ると悦ぶも、もと蛇が大いに耕作を助けた時の遺風と知れる。
 それから随分危険ながら蛇が著しく人を助くる今一件は、その毒を鏃《やじり》に塗りて蠢爾《しゅんじ》たる最も下劣な蛮人が、猛獣巨禽を射殺して活命する事だ。パッフ・アッダーはほとんどアフリカ全部に産し、長《たけ》四、五フィートに達する大毒至醜の蝮で、その成長した奴は世界でもっとも怖るべき物という。この蝮は平生頭のみ露わして体を沙中に埋め、その烈毒を憑《たの》んで猥《みだ》りに動ぜず。人畜近くに及び、わずかに首を擡《もた》ぐ。人はもとより馬もこれに咬まるれば数時の後|斃《たお》る。しかるにこの蛇煙草汁を忌む事抜群で、この物煙草汁に中《あた》って死するは、人がこの物の毒に中って死するより速やかだから、ホッテントット人これを見れば、煙草を噛んでその面に吹き掛け、あるいは杖の尖《さき》にその脂《やに》を塗りて、これに咬み付かしむればたちまち死す。ブシュメン人、この蛇の動作鈍きに乗じ、急にその頸を跣足《はだし》で蹈み圧《おさ》え、一打ちに首を切り、さて寛《ゆっく》りその牙の毒を取り、鏃に着くるに石蒜《ひがんばな》属のある草の粘汁を和す。ブシュメン用いるところの弓は至って粗末なるに反して、その矢は機巧を究め、蘆茎を※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1−89−75]《やがら》とし、猟骨を鏃とし、その尖に件《くだん》の毒を傅《つ》けて※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1−89−75]中に逆さまに挿し入れ蔵《おさ》め置き、用いるに臨み抜き出して尋常に※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1−89−75]の前端に嵌《は》め着く。このブシュメン人は濠州土人|火地人《フェージャン》等と併《なら》びに最劣等民と蔑《べっ》せらるるに、かくのごとき優等の創製を出した上に、パッフ・アッダーを殺すごとその毒を嚥《の》まば、蛇毒ついにその身を害し能わざるべきを予想し、実行したるは愚者も千慮の二得というべし。
 ウッドの『博物画譜』にいわく、パッフ・アッダーに咬まれたのに利く薬|聢《たし》かに知れず。南アフリカの土人は活きた鶏の胸を開いて心動いまだ止《や》まぬところを創《きず》に当てると。一七八二年版ソンネラの『東印度および支那紀行』にいわく、インドのカリカルで見た毒蛇咬の療法は妙だった。若い牝鶏の肛門を創に当て、その毒を吸い出さしむると少時して死す。他の牝鶏の尻を当てるとまた死す。かくて十三回まで取り替ゆると、十三度目の者死なずまた病まず。その人ここにおいて全快したと。多紀某の『広恵済急方』という医書に、雀の尻上を横|截《ぎ》りした図を出し、確か指を切って血止まらざるを止めんとならば、活きた雀を腰斬りしてその切り口へ傷処をさし込むべしとあったと記憶するが、これらいずれも応急手当として多少の奏効をし
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