くその全話の根本じゃない。『記』に由って考うるに、この肥長比売は大物主神の子か孫で、この一件すなわち品地別命がかの神の告《つげ》により、出雲にかの神を斎《いつ》いだ宮へ詣でた時の事たり。上にも言った通り、この神の一族は蛇を族霊《トテム》としたから、この時も品地別命が肥長比売の膚に雕《え》り付けた蛇の族霊の標《しるし》か何かを見て、その部族を忌み逃げ出した事と思う。大物主神は素戔嗚尊《すさのおのみこと》が脚摩乳《あしなつち》手摩乳《てなつち》夫妻の女を娶《めと》って生んだ子とも裔《すえ》ともいう(『日本紀』一)。この夫妻の名をかく書いたは宛字《あてじ》で、『古事記』には足名椎手名椎に作る。既《はや》く論じた通り、上古の野椎ミツチなど、蛇の尊称らしきより推せば、足名椎手名椎は蛇の手足なきを号《な》としたので、この蛇神夫妻の女を悪蛇が奪いに来た。ところを尊が救うて妻とした「その跡で稲田|大蛇《おろち》を丸で呑み」さて産み出した子孫だから世々蛇を族霊としたはずである。
予は清姫の話は何か拠るべき事実があったので、他の話に拠って建立された丸切《まるきり》の作り物と思わぬが、もし仏徒が基づく所あって多少附会した所もあろうといえば、その基づく所は釈尊の従弟で、天眼第一たりし阿那律《あなりつ》尊者の伝だろう。この尊者については、近出の『仏教大辞彙』などに見える珍譚|甚《いと》多い。例せば阿那律すでに阿羅漢となって、顔容美しきを見て女と思い、犯さんとしてその男たるを知り、自らその身を見れば女となりおり、愧じて深山に隠れ数年帰らず。阿那律その妻子の歎くを憐《あわれ》み、その者を尋ねて悔過せしめ、男子となり復《もど》って家内に遇わしめた(『経律異相』十三)。『四分律』十三に、毘舎離の女他国へ嫁して姑と諍《いさか》い本国へ還るに、阿那律と同行せしを、夫追い及んで詰《なじ》ると、〈婦いわく我この尊者とともに行く、兄弟相逐うごとし他の過悪なし〉と、夫怒りて阿を打ってほとんど死せしめたと出るが、阿は高の知れた人間の女に、心を動かすような弱い聖《ひじり》でなく、かつて林下に住みし時、前生に天にあって妻とした天女降って、天上の楽を説くに対し、〈諸《もろもろ》の天に生まれ楽しむ者、一切苦しまざるなし、天女汝まさに知るべし、我生死を尽くすを〉と喝破《かっぱ》したは、南方先生若い盛りに黒奴《くろんぼ》女の夜這《よば》いを叱《しか》り卻《かえ》したに次いで豪い(『別訳雑阿含経』巻二十、南方先生|已下《いか》は拙《やつがれ》の手製)。『弥沙塞五分律《みしゃそくごぶんりつ》』八に、〈仏、舎衛城に在り、云々。時に一の年少の婦人の夫を喪う有りて、これなる念《おも》いを作《な》す。我今まさに何許《いず》くかに更に良き対を求めるべし、云々。まさに一の客舎を作り、在家出家の人を意に任せて宿止せしめ、中において択び取らんと。すなわち便《ただ》ちにこれを作り、道路に宣令して、宿るを須《ま》つ。時に阿那律、暮にかの村に至り、宿所を借問す。人有りて語りて言う、某甲の家に有りと。すなわち往きて宿を求む。阿那律、先に容貌|好《よ》きも、既に得道の後は顔色常に倍せり。寡婦、これを見て、これなる念いを作《な》す。我今すなわち已《すで》に好き胥《むこ》を得たりと。すなわち、指語すらく中に宿るべしと。阿那律すなわち前《すす》みて室に入り結跏趺坐《けっかふざ》す。坐して未だ久しからずしてまた賈客あり、来たりて宿を求む。寡婦答えて言う、我常に客を宿すといえども、今已に比丘に与え、また我に由らずと。賈客すなわち主人の語を以て、阿那律に従きて宿を求む。阿那律寡婦に語りて言う、もし我に由らば、ことごとく宿を聴《ゆる》すべしと。賈客すなわち前に進《い》る。寡婦またこれなる念いを作す。まさに更に比丘を迎えて内に入らしむべし、もし爾《しか》せざれば、後來期なからんと。すなわち内に更に好き牀を敷き燈を燃し、阿那律に語りて言う、進みて内に入るべしと。阿那律すなわち入りて結跏趺坐し、繋念して前に在り。寡婦衆人の眠れる後に語りて言う、大徳我の相|邀《むか》える所以の意を知れるや不《いな》やと。答えて言う、姉妹よ汝が意は正に福徳に在るべしと。寡婦言う、本《も》とこれを以てにあらずと、すなわち具《つぶ》さに情を以て告ぐ。阿那律言う、姉妹よ我等はまさにこの悪業を作《な》すべからず、世尊の制法もまた聴《ゆる》さざる所なりと。寡婦言う、我はこれ族姓にして年は盛りの時に在り、礼儀|備《つぶ》さに挙がりて財宝多饒なり。大徳の為に給事せんと欲す。まさに願うべき所、垂《なに》とぞして納められよと。阿那律これに答えること初めの如し。寡婦またこれなる念いを作す。男子の惑う所は惟《た》だ色に在り。我まさに形を露《あらわ》にしてその前に立つべしと。
前へ
次へ
全35ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング