法に書いては見所なき故、わざと過分に書くといったのだが、実際それぞれの物どもも、活溌に働く最中には、十二分に勢いも大きさも増すに相違ない。予深山で夕刻まで植物を観察し、急いで小舎《こや》に帰る途上、怪しき大きな風呂敷様の物、眼前に舞い下るに呆《あき》れ立ち居ると、変な音を立て樹を廻り行くを見ると、尋常の※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》で、初め飛び落ち来った時に比して甚だ小さい。この物勢い込んで飛ぶ時、翅《はね》が張り切りおり、なかなか博物館で見る死骸を引き伸ばした標品とは、大いに大きさが違うようだった。
 さて欧州で名手が作ったおそくずの絵を見た内に、何の活動もなきアルコール漬を写生したようなが多く、したがってこの種の画は、どうも日本の名工に劣るが多く思われたは、全く写生に執心する余り、死物を念入れて写すような事弊に陥ったからであろう。故に西洋人の写生が、必ずしも究竟の写生でなく、東洋風の絵虚事が、かえって実相を写し得る場合もあると惟《おも》う。この事は明治三十年頃、予がロンドンのサヴェージ倶楽部で、アーサー・モリソンに饗応された席で同氏に語り、氏は大いに感心された。その後|河鍋暁斎《かわなべきょうさい》がキヨソネとかいうイタリア人に、絵画と写真との区別心得を示した物を読んだ中にも、実例を出して、似た事を説きあったと憶《おぼ》える。件《くだん》のモリソンは、何でもなき一書記生から、奮発して高名の小説家となった人で、日本の美術に志厚く予と親交あったが、予帰朝後『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版十八巻に、その伝を立てたるを見て、ようやくその偉人たるを知った位、西洋には稀に見る淡白謙虚な人である。

     蛇の足

 六月号へ本篇三を出し未完と記しながら、後分を蛇の体同様長々と出し遅れたは、ちょうどその頃|谷本富《たにもととめり》博士より、三月初刊『臨済大学学報』へ出た「蛇の宗教観」を示された。その内には自分がまさに言わんとする事どもを少なからず説かれおり、ために大きな番狂わせを吃《く》い、何とも致し方なくて、折角成り懸かった原稿を廃棄し、更に谷本君の文中に見ぬ事のみを論ずるとして再度材料蒐集より掛かったに因る。
 さて前項に『さへづり草』を引いて、出羽にトンヘビとて、人の後庭《しりえ》を犯し、これを殺す奇蛇ある由、ト
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