し」とあるばかりだそうな。熊楠ウェブストルの字書を見るとルジクラス(可笑《おかし》い)の例としてド・クインシーの語を引く。いわくファン・トロールの書に「アイスランドの蛇―なし」これだけを一章として居ると。前年一英人ファン・トロールの書をデンマークより取り寄せ仔細に穿鑿《せんさく》せしもかかる章を見ざりしと聞く。ド・クインシー例の変態精神から心得違うてかかる無実を言い出したなるべし。

     身の大きさ

 ベーツの『|亜馬孫河畔の博物学者《ゼ・ナチュラリスト・オン・ゼ・リヴァー・アマゾンス》』アナコンダ蛇が四十二フィートまで長じた事ありと載せ、テッフェ河汀で小児が遊び居る所へアナコンダが潜み来て巻き付いて動き得ざらしめその父児の啼《な》くを聞きて走り寄り、奮って蛇の頭を執らえ両|齶《あご》を※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《ひ》き裂いたと言う。錦絵や五姓田《ごせだ》氏の油絵で見た鷺池平九郎の譚もまるで無根とも想われぬ。アマゾン辺の民|一汎《いっぱん》に信ずるはマイダゴア(水の母また精)とて長《たけ》数百フィートの怪蛇あり、前後次第して河の諸部に現わると。『千一夜譚《サウザンドナイツ・エンド・ア・ナイト》』に海商シンドバッド一友と樹に上り宿すると夜中大蛇来てその友を肩から嚥《の》みおわり緊《きび》しく樹幹を纏《まと》うて腹中の人の骨砕くる音が聞えたと出で、有名な東洋ゴロ兼|法螺《ほら》の日下|開山《かいさん》ピントはスマトラで息で人殺す巨蛇に逢ったといい、ドラセルダ、ブラジルのサンパウロを旅行中その僕《しもべ》大木の幹に腰掛くると動き出したから熟《よく》視《み》ると木でなくて大蛇だったと記した。『山海経《せんがいきょう》』に巴蛇《はじゃ》象を呑む、一六八三年ヴェネチア版ヴィンセンツオ・マリヤの『東方行記《イル・ヴィアジオ・オリエンタリ》』四一六頁にインドのマズレ辺に長九丈に達する巨蛇ありて能く象を捲き殺す、その脂は薬用さる、『梁書』に〈倭国獣あり牛のごとし、山鼠と名づく、また大蛇あり、この獣を呑む、蛇皮堅くして斫《き》るべからず、その上孔あり、乍《はや》く開き乍く閉づ、時にあるいは光あり、これを射て中《あつ》れば蛇すなわち死す〉。日本人たるわれわれ何とも見当の付かぬ珍談だが何か鯨の潮吹《しおふき》の孔などから思い付いた捏造《ねつぞう》説でなかろうか。
前へ 次へ
全69ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング