く曲なればすなわち手を螫《さ》す〉。前者は武内宿禰《たけのうちのすくね》などが行った湯起請《ゆぎしょう》で国史にも見える。それと記し駢《なら》べたるを見ると古く蛇起請も行われたるを、例の通り邦人は常事として特に書き留めなんだが、支那人は奇として記録したのだ。礼失して野に求むてふ本文のごとく、かかる古俗が日本に亡びて、琉球に遺存したのだ。それよりも珍事は十字軍の時、回将サラジンが大蛇を戦争に使わんとしたので五月号に出し置いた。西洋で鰻を食うに、骨切りなどの法なく、ブツブツと胴切りにして羹《しる》に煮るを何やら分らずに吃《く》う。ウィリヤム・ホーンの書を見ると、下等な店では蛇を代用するもあるらしい。由って在英中得も知れぬ穢《きたな》い店どもへ多く入りて鰻汁を命じ、注意して視《み》たが最早そんな事はせぬらしかった。『今昔物語』など読むと、本邦でも低価な魚として蛇を食わせ、知らぬが仏の顧客を欺く事も稀にあったらしいが、永良部鰻《えらぶうなぎ》てふ海蛇のほかに満足に食用すべきものなきがごとし。昔支那から伝えた還城楽《げんじょうらく》は本名|見蛇楽《けんじゃらく》で、好んで蛇を食う西国人が蛇を得て悦ぶ姿を摸したという。古今風俗の違いもあるべきが、支那より西に当って蛇を食う民を捜すと、『聖書』に爬虫類を啖う禁戒あれば、ユダヤ教やキリスト教の民でまずはない。しかるに回教を奉ずるアラビア人は、無毒の蛇を捕え頭を去り体を小片に切り串に貫き、火の上に旋《まわ》しながらレモンや塩や胡椒《こしょう》等を振り掛け食う。欧人これを試みた者いわく、腥《なまぐさ》くてならぬ故臭い消しに炙《あぶ》る前、その肉をやや久しく酢に漬け置くべし味は鰻に優るとも劣りはせんと(ピエロチの『パレスチン風俗口碑記』四六頁)。
 支那や後インドで※[#「虫+冉」、305−15]蛇肉《ぜんじゃにく》を賞翫《しょうがん》し、その胆を薬用する事は本篇の初回に述べた。プリニウス言う、エチオピアの長生人《マクロビイ》アトス山の住民等蝮を常食とし、虱《しらみ》生ぜず四百歳の寿を保つと。一六八一年に成ったフライヤーの『|東印度および波斯新話《ア・ニュウ・アッカウント・オヴ・イースト・インジア・エンド・パーシア》』一二三頁に、蝮酒は肺癆《はいろう》を治し、娼妓の疲れ痩せたるを復すといい、サウシの『随得録《コンモンプレース・ブック》』四
前へ 次へ
全69ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング