に伝う(蒲生佐野ともに秀郷の後胤《こういん》だ)。この宝物を負い出でたる童を、如意と名づく、その子孫を竜次郎とて、佐野の家にあり、後《のち》宮崎氏と称すると出《い》づ、何に致せ蒲生氏|強盛《ごうせい》の大名となりてより、勢多の秀郷社も盛んに崇拝され、種々の宝物も新造されて、秀郷当身の物と唱えられたらしい。『誌略』に雲住寺縁起に載った、秀郷の鏃を見んと、洛西妙心寺に往って見ると、鏃甚だ大にしてまた長く、常人の射るべき物ならず、打根《うちね》のごとし、打根は射る物でなく手に掛けて人に打ち付くる物なり、尚宗とある銘の彫刻および中真《なかみ》の体、秀郷時代より甚だ新しいようだから、臣寺僧に問うに、この鏃は中世蒲生家よりの贈品で、秀郷の鏃という伝説もなし、ただ参詣人、推して秀郷の鏃と称えるのですと対《こた》えたとある。
『明良洪範《めいりょうこうはん》』二四には、天正十七年四月、秀吉初め男子(名は棄君)を生む、氏郷累代の重器たる、秀郷|蜈蚣《むかで》射たる矢の根一本|献《たてまつ》る、この子三歳で早世したので、葬処妙心寺へかの鏃を納めたとあるから見ると、氏郷重代の宝だったらしい。
さて秀郷を俵
前へ
次へ
全155ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング