すら奇なるに、『今昔物語』の加賀の海島の蜈蚣が海を渡った大蛇を襲うたは一層合点行かぬという人もあろう、しかし欧州西部の海浜波打ち際に棲《す》む蜈蚣二属二種あり、四十年ほど前予毎度和歌浦の波止場の波打ち懸る岩下に小蜈蚣あるを見た、今日は既に命名された事と想う、さて貝原先生の『大和本草』に「ムカデクジラ長大にして海鰌のごとし、背に鬣《たてがみ》五あり尾二に分る、足左右各六すべて十二足あり肉紅なり、これを食えば人を殺す、大毒あり」、『唐土訓蒙図彙』にその図あったが、貝原氏の説に随ってよい加減に画いた物に過ぎじと惟《おも》う、かかる変な物今日まで誰も気付かぬは不審と、在外中種々捜索すると、やっとサー・トマス・ブラウンの『ノーフォーク海岸魚等記』(十七世紀)に、「予また漁夫が海より得たちゅう物を見るにロンデレチウスが図せるスコロペンドラ・セタセア(蜈蚣鯨の意)に合い十インチほど長し」とあるを見て端緒を得、ロンデレチウスの『海魚譜《リブリ・デ・ピッシブス・マリンス》』(一五五四年版)と『水族志余篇《ウニウエルサエ・アクアチリウム・ヒストリアエ・パルス・アルテラ》』(一五五五年版)を求めたが、稀書で手に入らず、しかし幸いに一六〇四年版ゲスネルの『動物誌《ヒストリア・アニマリウム》』巻四にロ氏の原図を出しあるを見出した、一七六七年版ヨンストンの『魚鯨博物志《ヒストリア・ナチュラリス・デ・ピッシブス・エト・セチス》』巻五の四四頁には一層想像を逞《たくま》しゅうした図を出す、この二書に拠るに蜈蚣鯨を満足に記載したは、ただ西暦二百年頃ローマ人エリアヌス筆『動物性質記《デ・ナチュラ・アニマリウム》』十三巻二十三章あるのみで、その記にいわく、蜈蚣鯨は海より獲し事あり、鼻に長き鬚あり尾|扁《ひらた》くして蝦《えび》(または蝗《いなご》)に似、大きさ鯨のごとく両側に足多く外見あたかもトリレミスのごとく海を游《およ》ぐ事|駛《はや》しと、トリレミスとは、古ローマで細長い船の両側に長中短の櫓を三段に並べ、多くの漕手が高中低の三列に腰掛けて漕いだもので、わが邦の蜈蚣船(『常山紀談』続帝国文庫本三九八頁、清正が夫人の附人輩《つきびとら》川口にて蜈蚣船を毎晩に漕ぎ競べさせたとある)も似たものか、さてゲスネルはかかる蜈蚣鯨はインドにありといい、ヨンストンはその身全く青く脇と腹は赤を帯ぶといった、それからウェブストルの大字書にスコロペンドラ(蜈蚣)とスペンサーの詩にあるは魚の名と出で居る、これだけ列《つら》ねて一八九七年の『ネーチュール』五六巻に載せ、蜈蚣鯨は何物ぞと質問したが答うる者なく、ただその前インドの知事か何かだったシンクレーヤーという人から『希臘詞花集《アントロギアイ・グライカイ》』中のテオドリダス(西暦紀元前三世紀)とアンチパトロス(紀元前百年頃)の詩を見ろと教えられたから半日ほど酒を廃して捜すと見当った、詩の翻訳は不得手ゆえ出任せに訳すると、テの詩が「風南海を攪《かき》まわして多足の蜈蚣を岩上に抛《な》げ揚げた、船持輩この怪物の重き胴より大きな肋骨を取ってここに海神に捧げ置いた」、アの方は「何処《いずこ》とも知れぬ大海を漂浪したこの動物の遺骸破れ損じて浜辺の地上にのたくった、その長さ四丈八尺|海沫《かいまつ》に沾《ぬ》れ巌石に磨かれたるを、ヘルモナクス魚取らんとて網で引き上げ、ここにイノとパライモンに捧げた、この二海神まさにこの海より出た珍物を愛《め》で受くべし」てな言《こと》だ、マクグレゴル注にここに蜈蚣というはその足の数多しというでなく、その身長きを蜈蚣に比べたので、近世評判の大海蛇のような物だろうと言い、シュナイデルはこれぞエリアヌスのいわゆる蜈蚣鯨なりと断じた、これは鯨類などの尸《しかばね》が打ち上がったその肋骨の数多きを蜈蚣の足と見たのだろ、レオ・アフリカヌスの『亜非利加記』にメッサの海浜のある社の鳥居は全く鯨の肋骨で作る、蜈蚣鯨が予言者ヨナを呑んでここへ吐き出した、今も毎度この社前を過ぎんとする鯨は死んで打ち上がる、これ上帝この社の威厳を添えるのだとは、そりゃ聞えませぬ上帝様だ、『続博物誌』に曰く、李勉※[#「さんずい+并」、第4水準2−78−69]州にありて異骨一節を得、硯と為すべし、南海にいた時海商より得、その人いうこれ蜈蚣の脊骨と、支那でも無識の人は鯨の脊骨に節多きを蜈蚣の体と誤認したのだ、有名な一八〇八年九月スコットランドのストロンサ島に打ち上がった五十五フィートの大海蛇は、これを見た者宣誓して第七図を画き稀有《けう》の怪物と大評判だったが、その骨をオエン等大学者が検して何の苦もなく一判りにセラケ・マキシマなる大鮫と知った(同図ロ)。その心得なき者は実際|覩《み》た物を宣誓して画いてさえかく途方もなき錯誤を免れぬ事あり(一八一一年『エジ
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