しが中《あた》った事あり、わが邦にも『水鏡』恵美押勝《えみのおしかつ》討たれた記事に「また心|憂《う》き事|侍《はべ》りき、その大臣の娘|座《おわ》しき、色《いろ》容《かたち》愛《めで》たく世に双人《ならぶひと》なかりき、鑑真《がんじん》和尚の、この人千人の男に逢ひ給ふ相|座《おわ》すと宣《のたま》はせしを、たゞ打ちあるほどの人にも座せず、一、二人のほどだにも争《いか》でかと思ひしに、父の大臣討ち取られし日、御方《みかた》の軍《いくさ》千人ことごとくにこの人を犯してき」、いずれも妙光女の仏話から生じたらしいと、明治四十一年六月の『早稲田文学』へ書いて置いた。『呉越春秋』か『越絶書』に、伍子胥《ごししょ》越軍を率いて、その生国なる楚に討ち入り、楚王の宮殿を掠《かす》めた時、旧君たりし楚王の妃妾を強辱して、多年の鬱憤を晴らしたとあった。『将門記《しょうもんき》』に、平貞盛《たいらのさだもり》と源扶《みなもとのたすく》敗軍してその妻妾|将門《まさかど》の兵に凌辱せられ、恥じて歌詠んだと出づ。強犯されて一首を吟《くちずさ》むも、万国無類の風流かも知れぬが、昔は何国《いずく》も軍律|不行届《ふゆきとどき》かくのごとく、国史に載らねど、押勝の娘も、多数兵士に汚された事実があったのを、妙光女の五百人に二倍して、千人に云々と作ったのであろう。
 フィリップ氏曰く、竜の英仏名ドラゴンは、ギリシアにドラコン、ラテンのドラコより出で、ギリシアのドラコマイ(視る)に因《ちな》んで、竜眼の鋭きに取るごとしと。ウェブストルに、竜眼怖ろしきに因った名かとある方、釈《と》き勝《まさ》れりと惟《おも》う。例せば上に引いたペルシアの『シャー・ナメー』に、竜眼を血の湖に比べ、欧州の諸談皆竜眼の恐ろしきを言い、殊に毒竜バシリスクは、蛇や蟾蜍《ひきがえる》が、鶏卵を伏せ孵《かえ》して生ずる所で、眼に大毒あり能く他の生物を睨《にら》み殺す、古人これを猟った唯一の法は、毎人鏡を手にして向えば、彼の眼力鏡に映りて、その身を返り射《い》、やにわに斃死《へいし》せしむるのだったという(ブラウン『俗説弁惑《プセウドドキシア・エピデミカ》』三巻七章、スコッファーン『科学俚俗学拾葉《ストレイ・リープ・オヴ・サイエンス・エンド・フォークロール》』三四二頁以下)。シュミットの『銀河制服史《ゼ・コンクエスト・オヴ・ゼ・リヴァー・
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