洋口碑大全』に引いた『神社考』には、太刀のほかの四品、『和漢三才図会』には太刀、鎧、旗、幕、巻絹、鍋、俵、庖刀、鐘と心得童子《こころえのどうじ》、計九品と一人、太刀の名|遅来矢《ちくし》と出《い》づ。寛永十年頃筆せられた『氏郷記』巻上にも、如上の十種を挙げた。鍋を早小鍋、俵を首結俵とし居る。また一伝に、露という硯《すずり》も将来したが竹生島へ納むとあり、太刀は勢州赤堀の家にあり、避来矢《ひらいし》の鎧は下野国《しもつけのくに》佐野の家にあり、童は思う事を叶《かな》えて久しく仕えしが、後に強《きつ》う怒られて失《う》せしとかや、巻絹は裁《た》ち縫うて衣裳にすれども耗《へ》らず、衣服に充満《みち》けるが、後にその末を見ければ延びざりけり、鍋は兵糧を焼《た》くに、少しの間に煮えしとなり。これも後には底抜けて、その破片《かけ》は蒲生家にありとぞ聞えし、俵は米を取れども耗らず、粮《かて》も乏しき事なし、それ故に名字を改め、俵藤太とぞ申しける。されども、将門《まさかど》退治の後、ある女房俵の底を叩いて米を開《あ》ければ、一尺ばかりの小蛇出で去りしより、米出でざりけり、これより始まりて、今俵の底を叩かぬ謂《いわ》れとなり、また秀郷の末孫、陣中にて女房を召し仕わざるも、この謂れとかや云々。秀郷を神と崇めて勢多に社あり(『近江輿地誌略』に、勢多橋南に秀郷社竜王社と並びあり、竜王社は世俗乙姫の霊を祭るという、傍なる竜光山雲住寺縁起に、秀郷水府に至りて竜女と夫婦の約あり、後ここに祭ると)、されば秀郷の子孫、勢多橋を過ぐるには、下馬して笠を脱ぎ、鈎匙《さじ》、小刀、鞭《むち》、扇等、何にても水中へ投げ入れ、礼拝して通るに必ず雨ふるなり云々、また曰く、下野国佐野の家にも秀郷より伝えし鎧あり、札に平石権現と彫り付け牡蠣《かき》の殻も付きたり、かの家にては「おひらいし」の鎧とて答拝せらるとなり、またかの鎧竜宮より持ちて上りし男、竜二郎、竜八とて二人あり、これも佐野家に仕えけるが、竜二郎は断絶す、竜八は今において佐野の秋山という処にこれあり、彼らが子孫は必ず身に鱗ありとなり、避来矢《ひらいし》の鎧と書き、平石にてはなしと、以上『氏郷記』の文だ。
『近江輿地誌略』に、ある説に鐺《なべ》は、蒲生忠知の室は内藤帯刀《ないとうたてわき》女《むすめ》なり、故に蒲生家断絶後内藤家に伝う、太刀は佐野の余流赤堀家
前へ
次へ
全78ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング