トラヴェルス》』巻四、頁三一三)。これは『水経註《すいけいちゅう》』に見えた水虎の話を西人が誤聞したのでないか。『本草綱目』虫部や『和漢三才図会』巻四十にも引かれ、わが国の河童《かっぱ》だろうという人多いが確かならぬ。エイモニエーの『安南記』にはオラングライー族の村に虎入りて人なり犬なり豕なり一頭でも捉わるると直ぐ村を他処へ移すと見ゆ。一七六九年インドの北西部飢饉し牛多く死し虎常時の食を得ず、ブハワバール市を侵しおよそ四百人を殲《ころ》し、住民逃げ散じて市ために粕N間空虚となったとクルックの『西北印度諸州篇《ゼ・ノース・ウエスターン・プロヴインセス・オブ・インジア》』に見え、次に開化の増進に随い虎が追々減少する事体を述べ居る。虎を狩る法は種々あり、虎自身が触れ動かして捕わるる弾弓や、落ちたら出る事ならぬ穽《おとしあな》や木葉に黐《もち》塗りて虎に粘《ねばりつ》き狂うてついに眼が見えぬに至らしむる設計《しかけ》等あるが、欧人インドで虎を狩るには銃を揃え象に乗って撃つのだ。康熙帝自ら虎狩せしを見た西人の記には専ら槍手隊を使うたよう出で居る。遼元の諸朝は主として弓を用いたらしい。『類函』四二九巻に陳氏義興山中に家《す》む、夜虎門に当って大いに吼《ほ》ゆるを聞き、開き視《み》れば一少艾衣類凋損《ひとりのむすめきものそこね》たれど妍姿傷《みめそこ》ねず問うてこれ商人の女《むすめ》母に随い塚に上り寒食を作《な》すところを虎に搏たれ逃げ来た者と知り、見れば見るほど麗《うつく》しいから陳の妻が能《よ》くわが子婦たらんかと問うと諾した。依ってその季子に配す。月を踰《こ》えてその父母尋ね来り喜び甚だしく遂に婚姻を為し目《なづ》けて虎媒といったとある。
虎を殺した者を褒《ほ》むるは虎棲む国の常法だ。秦の昭襄王《しょうじょうおう》の時白虎害を為せしかば能く殺す者を募る、夷人|※※[前の「※」は「にくづき+句、後の「※」は「にくづき+忍」、16−15]《くじん》廖仲薬《りょうちゅうやく》[#底本ではルビの「りょうちゅうやく」が「こうちゅうやく」と誤記]秦精《しんせい》等|弩《いしゆみ》を高楼に伏せて射殺す、王曰く虎四郡を経《へ》すべて千二百人を害せり、一朝これを降せる功|焉《これ》より大なるはなしとて石を刻んで盟を成したと『類函』に『華陽国志』を引いて居るが、かかる猛虎を殺した報酬に石を刻
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