すめ》を喚び、ひそかにこれに告げていわく、われ今宝あり、宝中の上なるものはまさにもって汝に遺すべし、汝この宝を得れば密蔵すること堅からしめ、王に知らしむることなかれ、と。女《むすめ》、父の勅を受け、摩尼《まに》珠および諸珍宝を持って、これを糞穢に蔵す。室家大小とも、みなまた知らず。世の飢饉に値《あ》い、女の夫、妻に告ぐらく、わが家貧窮して衣食に困《くる》しむ、汝は他《よそ》へ行き自活の処を求むべし、と。妻、夫に白《もう》していわく、わが父の長者、命終に臨める時、宝をもってわれに賜い、今某処にあり、君これを取るべし、と。時に夫掘り取って、大いに珍宝と如意珠を獲《う》。如意珠を持って焼香礼拝し、まず願を発していわく、わがために食を雨《ふ》らせよ、と。語に随ってすなわち百味の飲食《おんじき》を雨らす。かくのごとく種々のもの意に随って宝を得。時に夫、得おわって、その妻に告げていわく、卿《なんじ》は天女のわれに宝を賜うがごとし、汝この宝を蔵せるをわれなお知らず、いわんやまた他人においておや、と」。これは、死んでゆく父が娘の賢きを知り抜き、隠さずに宝を譲ったのを、娘がまさかの時に用いんとて、よく隠し置いたので、『藩翰譜』に出でた山内一豊の妻などと似た行いだ。
 これら仏教譚よりもずっと『宇治拾遺』や『国史補遺』の談に近いのは袁天綱の伝にある。皆人の知る通り、天綱は唐一代の占術の達人で、よく前後五百年のことを知った。その妻が後世子孫の栄枯を占い言えと勧めたので、占うと十代めの孫はきわめて貧乏と判った。妻がそれを救う法ありやと問うたから、また占うて、某の年月日に本府の太守[#「太守」は底本では「大守」]が梁《うつばり》が落つる厄にあうべしと知った。そこで、その旨を書いて赤い箱に入れ家廟中に封じ、代々相伝えて十代めの孫に至り、某年月日にこの箱を太守に送り、必ず太守自身堂より下って親《みずか》らこれを受けしめよ、と書き付け置いた。さて十代めの孫に至り果たして大貧乏で、祖先の言を思い、その年月日を待ってかの箱を府堂の階下に送り、ぜひ太守が自身下って受けんことを求めた。太守身を起こし階を下ると同時に、堂上の朽ちた梁が落ちて、太守が今まで占めおった公座を砕いた。太守は箱を受け取り開きみると、一帖あり、汝わが十世の孫の貧を救え、われ汝の堕梁の厄を救うと書き付けたを見て、太守は活命の恩を拝謝し、袁天綱の十代めの孫を薦めて官途に就かせ、活計を得せしめたという(『淵鑑類函三二三』)。



底本:「日本の名随筆82 占」作品社
   1989(平成元)年8月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第6刷発行
底本の親本:「南方熊楠文集 第二巻」平凡社
   1979(昭和54)年5月
入力:前野さん
校正:門田裕志
2002年12月4日作成
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