を開いたと藻塩草に出す。その頃は撫子と石竹を別たなんだのだ。石竹をカラナデシコといふから全く、支那から来たと思ふ人も有らんが、故矢田部博士の日本植物編に、本邦自生のコナデシコ、花は淡紅で、栽培する石竹の原種だとみゆ。熊楠按ずるに、菅公の知人嶋田忠臣が禁中の瞿麦花を詠んだ詩が二つある。花紅紫赤、又、濃き淡きあり、春末初めて発し夏中最も盛り、秋冬凋まず、続々開拆す、四時翫好蕪靡愛すべし、今年初めて禁離に種ゆ、物、地を得て美を増す、数十の名花ありと雖も傍色香なき若し。蓋し此花、大山川谷に生じ好家名処にあらずと叙べ、ばら[#「ばら」に傍点]刺あるを嫌ひ、芍薬光りなきを愧づと無上にほめたてた。大山川谷に生ずとは陶弘景の説で、支那での事ゆゑ忠臣が詠んだは、支那より渡つた四季咲の石竹を宇多帝が初めて宮中に栽させられたとみえる。林述斎曰く、桜の前の彼岸桜、牡丹の後の芍薬、カキツバタの後の花菖蒲、撫子の前の石竹、菊の後の寒菊、何れも品格は劣れども、又すて難くやとは、憲政会連が若槻首相を評する様に聞える。
 今さきをる石竹科の花に、道灌草は昔、江戸の道灌山に植たといふ。漢名王不留行、本草綱目にその薬性走つ
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