清造と沼
宮島資夫
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)清造《せいぞう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|文《もん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)めし屋ののれん[#「のれん」に傍点]
−−
一
清造《せいぞう》はその朝になって、やっとにぎやかな町に出ました。それは、清造の生まれた山奥《やまおく》の村を出てから、もう九日目くらいのことでした。それまでにも、小さな町や村は通ったことがありましたが、これほどにぎやかな町に出たのはこれがはじめてです。町の両側《りょうがわ》には新しい家がならんでいました。そうしてそれらの店《みせ》には、うまそうなおかしだの、おもちゃのようにきれいなかんづめだの、赤や青のレッテルをはったびんなどが、みがきたてたガラスの中にかざってありました。
すきとおるような、冬の朝の日の光に、それらの店やびんやおかしが、美しく光《ひか》っていました。店の前に立てた、赤地《あかじ》に白くそめ出した長い旗《はた》が、氷をふくんだような朝の風に、はたはたと寒そうに鳴っていました。
ほんとうは、それはまだ、東京の郊外《こうがい》の、ちょっとした新開地《しんかいち》にしかすぎません。けれども、今まで山の中にばっかり育《そだ》って、あまり町を見たことのない清造の目には、それがどんなに美しくうつったことでしょう。清造はすっかり驚《おどろ》きました。そうしてこの町をひいていく、馬力《ばりき》や牛車《ぎゅうしゃ》がどんなに長くつづいているのだろう。こんなたくさんの車や人が、どこからこうして出てくるのだろう。――おまけにその間を、自動車が、ブーッ、ブッと、すさまじい音をたてて、新開地のでこぼこ道を、がたがたゆれながら、勢《いきお》いよく走っていきます。清造はまったくびっくりしてしまいました。
しかし、これでやっと東京へ着《つ》いたのだ、と思うと、かれはやはりうれしくなりました。どんなに貧《まず》しい人でも、東京へさえいけば、なにか働《はたら》く道もあるし、りっぱになれるということを村の人たちから聞かされていたからです。けれどもそうして働くには、どこへいって、どんな人に頼《たの》んだらいいのか清造にはわかりませんでした。
町の両側《りょうがわ》の店をのぞきながら歩いても、それらの店の人たちはみんな、朝のかざりつけにせわしそうに働いていました。ぼろぼろによごれた、きたない着物をきている、ちっぽけな子どもなんかに目もくれる人はありません。それほどみんなはせわしかったのです。往来《おうらい》にはつめたい風が吹いているし、今はもう暮《く》れの売出《うりだ》しの時節《じせつ》です。
清造はだまってぼつぼつ歩いていました。お腹《なか》もぺこぺこに減《へ》っていましたが、なにか買って食べるお金なんか一|文《もん》も持っていなかったのです。めし屋ののれん[#「のれん」に傍点]の中からは、味噌汁《みそしる》やご飯《はん》の香《かお》りがうえきった清造の鼻先《はなさき》に、しみつくようににおってきました。しかし清造はぺこぺこにへこんだお腹をそっとおさえて、悲しそうにいき過ぎるよりほかにしかたがありませんでした。
このにぎやかな町にはいってから、五、六|町《ちょう》歩《ある》くうちに清造はどこの店も、自分にはまるで用《よう》のないものだということを、小さな頭にさとりました。唐物屋《とうぶつや》だの呉服店《ごふくてん》などに、どんなにきれいなものがかざってあっても、今の清造にはなんの興味《きょうみ》もありません。金物屋《かなものや》や桶屋《おけや》はそれ以上に用のないものでした。といって、あのうまそうなおかしだの、にしめだののならべてある店の前に立つと、ただ苦《くる》しくなってくるばかりです。
「どこにもおれには用はねえだ。」かれはそう思うと、このにぎやかな町が、にわかにさびしいものになってしまったように感じました。そうして、きのうまで歩いて来た、林だの畑ばかりつづいたいなか道が、かえって恋《こい》しくなってきました。そこでもかれはむろん、うえ疲《つか》れて歩いていました。しかし、お腹《なか》がへって、からだが疲《つか》れてふらふらしてくると、清造はどこか道ばたの木の根でも、お堂《どう》の縁《えん》にでも腰をおろして、ごろりと横になるのでした。そうしてふと目をつぶると、頭の中がしいんとして、いつも同じように、自分がいままで遊んでいた、村のはずれにある、あの大きな沼《ぬま》が目の前に浮《う》かんできました。
清造はそのふるびたさびしい沼のふちに、たったひとりで遊んでいました。沼にはあし[#「あし」に傍点]やよし[#「よし」に傍点]の黄色い茎《くき》が枯
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮島 資夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング